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第4回魂の思考をしていくために—「ヌース理論」という名称で活動していた頃の話

TEXT BY KOHSEN HANDA
第4回魂の思考をしていくために—「ヌース理論」という名称で活動していた頃の話

 今日は僕がヌーソロジーの構築作業を長年行ってきた経験から、一番気をつけなくちゃいけないと思っていることについて少しだけ話しておくね。

理性的なものを否定するのではなく、超えていくこと

 今までヌーソロジーの活動がらみで、いろいろなタイプの人たちと会ってきた。ヌーソロジーはカバーする範囲がとても広いので、年齢、性別、職業を問わずほんと多種多様な人たちが接触してくるんだよね。たとえば、自称フリエネ研究者で「相対論は間違ってる」とか言って、少々マッドな自説を展開している人。これは中年のオジさんに多いね。「そりゃエマエだろ」って声も聞こえるけど、ここはスルー(笑)。次に無茶苦茶、理屈っぽくて、ああ言えばこう言う風の論理哲学系オタクの人。これは30代ぐらいの若い男性に多いね。また、「わたしはすべてを悟っている」風のオーラ全開の人。こういう覚者ポーズ全開の人は顔にはにこやかな笑みを浮かべているんだけど、だいたいが常に上から目線でくる。このタイプは男性にも女性にもいる。で、女性で多かったのが、「半田さん、あなたは愛が足りない。すべては愛です」とか言って、何が何でも愛を強要してくる愛のファシズムおばさん。まぁ、それぞれに個性があっていいのだけど、あくまでも私見だけど、こういう人たちは何かバランスにかけていて、私生活、大丈夫なのかな? って人が多いように感じた。

 まぁ、でも、一番多かったのはフラフラといろいろなスピ系のジャンルを彷徨い続けている人たちだったかな。ヌーソロジーの出自がチャネリングにあるから、どんな情報なのか興味深々だったんだろうね。こうしたスピ系ディアスポラの人たちに共通して言えることは、最初のテンションが異様に高いことなんだよね。「自分の探していたものはコレだったんです!!」とか言いながら初めは目を輝かせながら、すごく興奮して接近してくる。ヌーソロジーは確かにその手の人に食いつきがいいことも確かなんだ。そこには「冥王星のOCOT」を始めとして、オリオン、シリウス、プレアデス、意識進化、アセンション等、スピリチュアル業界でおなじみのタームが魅惑的にこれでもかとばかりちりばめられているからね。でも、いざフタを開けてみると、そういうタイプの人たちは、アレレ、何か違うぞ、ってな感じで突然、戸惑い出す(笑)。だって、ヌーソロジーには、虚軸とか、空間認識とか、SU(2)とか、一般のスピリチュアルではまずは聞くことのない概念や言葉がたくさん出てくるでしょ。面食らっちゃうわけだね。で、そのとき、彼、彼女らの口から決まって出てくる言葉が「難しすぎる」「理屈先行」「頭のエネルギー」とかいった批判めいた言葉なんだよね。結果、「ヌーソロジーにはハートがない」とか、「真理は単純なものであって、こんな難解なものに真理などない」とか言って、手のひらを返したようにディスりが始まる。その変貌ぶりにはほんとビックリ。確かに、ヌーソロジーを学んでいくにはある程度の知識や忍耐力が必要なことも確か。でも、自分に合わないからといって、ボロカスにこき下ろす必要もないと思うんだけどね。次に別なものを探せばいいだけのことだから。

 もちろん、どのような方法で「宇宙のほんとう」を追求しようとそれはその人その人で自由だとは思うのだけど、こういう人は大方が90年代からの精神世界ブームが流布した「知識はすべて弊害」というデマゴーグを未だに信奉していて、コンビニのような手軽さで「ほんとうのこと」を知ることができると考えている人が多いんだよね。もちろん、知識だけで頭でっかちになるのは最悪だけども、霊的知性というものが存在するのであれば、それは物質的な知性をも包摂しているものでないといけないよね。だから、現行のパラダイムが作り出してきた知識とは言え、今の物理学や哲学が何をどう考えているかということについてもある程度、押さえた上で、霊性は思考されなくてはいけない、というのがヌーソロジーのスタンスなんだよね。要は霊性を追求するにもリテラシーが必要だってこと。

 実際、ヌーソロジーの思考を養っていくと単に霊的な事柄のみならず、物理学や哲学や心理学や、その他いろいろな既成の学問との相互の関係性も見通しがよくなってくる。僕自身もこうした学問を専門的に学んだわけじゃない。OCOT情報を解読したい一心でいろいろな本を漁っていったら結果的にすべての繋がりが展望できるところに出たって感じ。ほんと不思議なことなんだけど、ヌーソロジーの世界観がある程度、頭の中にイメージできてくると、普段は超難解に感じる物理学や現代哲学、さらには神秘学関連の本なんかも何を言っているのか分かるようになる。何て言えばいいのかな。細かい知識なんか持ってなくても、書いてあることの行間が読めてくるんだよね。これは単なる情報処理のような機械的思考をしなくなるということを意味してる。思考自体のバランス感覚が取れてくるというか、自分の中に息づく霊性に基づいた直観能力が芽吹いてくる。そうすると、不思議なもので、感性のバランスも取れてくる。

ヌーソロジーはカルトの必要十分条件には欠けている

 そういえば、1990年代にこういうことがあった。当時、東京で毎月のようにセミナー(当時はレクチャーとは呼んでなかった)を開催していたんだけど、まだヌースアカデメイアの設立前だったから、主催は東京に住む或る人物がやってくれていた。彼は悪い人物ではなかったのだけど、いかんせん、霊能者とか超能力者を信奉するタイプの人だったんだよね。すごい能力者がいると聞くと、直に会いに行って、「あの人はすごい」とか言って心酔して帰ってくるんだ。人ってある特定の人物に心酔するとどうなるかというと、その人物の言うことを一から十まですべて信じるようになるよね。そして、やれ「地球を救うために」とか「どこそこに結界を作らないと富士山が噴火する」とか、そういった話に感化されてしまって、どんどん誇大妄想街道を突っ走っていってしまう。ルシファー(シュタイナーがいう悪魔のこと)が取り憑いちゃうんだね。もちろん、個人でそれをやる分には自由だと思うけど、こういうのはだいたいが他の人も巻き込んじゃう。そこがいただけない。彼もそんな危なっかしいタイプの人物だったんだ。

 実際、彼が僕を東京に呼んでヌースのセミナーを開催し始めたもの、ヌーソロジーがノストラダムスの予言にある「別のもの」だと固く信じ込んでしまったためで、僕に起こったチャネリング体験を僕自身の霊能力のように受け取っていたからなんだよね。一度、信じ込んでしまうと、彼のようなタイプの人間はその信憑を自分のアイデンティーにしてしまうから、当の僕がそれをいくら否定しようと、もう言うことを聞かなくなってしまう(笑)。まぁ、どういう人となりをしていかよく確かめないうちに主催を任せた僕もほんとうに愚かだったのだけど。

 彼が主催した集まりは最初は少人数だったんだけど、彼自身はとてもエネルギッシュな人物だったから、集まる人たちも徐々に増えていった。たぶん、多い時は100名近くまでいってたんじゃないかな。まだ本も出てない頃だよ。毎月、毎月、これだけの人たちを集めてくるんだからだからすごいよね。主催者としては当然のことだけど、彼はヌースの会をもっと大きくしていきたいと思ったのか、あるとき会の常連さんたちを数名集め、僕に大事な話があると言って、とあるマンションの一室に呼び出した。行ってみてびっくりしたよ。そこには彼だけでなく、ヌースの集まりをもっと組織的に展開していくべきだと考える数名の取り巻きの人たちがいた。一対多。それも密室。数的には圧倒的不利だよね。そこで彼は半ば威圧的にこう切り出してきたんだ。

「コウセンさんは、これからヌースをどうしていきたいと思っているんですか ? 」

「どうしていきたいって ? 」

 僕には彼の思惑は見え見えだったけど、わざとボケた。

「ヌースはこれからの世界変革のために最も必要なものです。僕らでもっと大きく展開していきましょう。それが世のため、人のためになります。」

 やっぱり来たか、という感じだったよね。世のため、人のためなんていうセリフは口に出して言うもんじゃないよね。

「で、何をしたいの ?」と僕は彼に尋ねた。

「もっと、組織的にやって行きましょう。ヌースの講師を育てて、全国に支部を作って展開していくんです。」

 ほら来た。まさに教団発足のノリ。ルシファーとアーリマンがお互いに「お主もワルよのう」と下卑た笑い浮かべている絵図が浮かんでくるようではないか。この手の欲望は必ず大義名分を謳って組織化を正当化していこうとするよね。でも、大方の場合、裏で働いている無意識は謳い文句とは真逆の方向を持ったものが多い。こんなの気持ち悪いものに付き合っちゃいられない。

「申し訳ないけど、僕はそういうスタイルは好きじゃない。やりたきゃ、君たちで勝手にやれば」

 確か、そんな話の流れだったように思う。彼やその取り巻きは組織的に啓蒙活動を行って巷によくある教団のように信者を増やしていくことが良かれと思っているのだが、こういうノリは必ず初期の志や理念を破壊していくことになるから、少なくともヌーシストたるものそういう方向に走るのはあまりオススメできない。本来「ヌース」が意味する「新しい知性」というのは一人一人の内在性の中で育て上げていくものであって、一部の宗教団体のように組織化して社会の中に打って出ていくものじゃない。出自はチャネリング情報にあることは否めないので、それだとほんとカルト集団になってしまう。

 まぁ、そんなかんだで、彼とはこの件をキッカケに別れ話をして、別れました(笑)。風の噂では、彼はそれから自分のオリジナルな会を立ち上げ、ヌースを彼なりのやり方で展開しようとしたのだけど、結局、人も集まることなく自然消滅。当然そうなるよね。本末転倒だもの。

 さて、このメルマガを読んでいる人の中には別にヌーソロジーに限らず、他のスピ系の思想にも関心がある人もいるだろうから、参考までに僕なりに考えるカルトの必要十分条件を四つ書いておくね。

1.中央集権性を敷いていること。本部を設置してそこから各支部へと指令系統が敷かれていること。

2.そのヒエラルキーを通して集金システムが作られていること。

3.組織が会員制を取って閉じていること。

4.トップにカリスマ然とした人物が君臨していること。

 老婆心ながら、この四つの条件をすべて満たしている団体があったら、これはもうカルトと言っていいと思うよ。もちろん、ヌーソロジーも有料でレクチャーを行ったり、DVDなんかも販売して、これからも運営のための資金調達にいろいろなプロジェクトを立てていくとは思うけど、少なくともヌーソロジーに共鳴する人たちの動きをヌーソロジーの枠の中で括ろうなんて考えたことは一度もない。実際、過去、現在を含めてヌーソロジーに関わってきた人たちは、各自各様に自分なりのヌース的活動を行っている。ここで「ヌース的」と言っているのは反転の世界像を思い描いているということだね。そして、彼らの活動内容に対して僕の方から注文をつけることもないし、もちろんパテント使用料なんてものも取っちゃいない。ヌーソロジーの展開方針は昔からずっと「無断転載を禁ず」ではなく、「無断転載を命ず」なのよね(笑)。もっと分かりやすくいうと、ヌーソロジーには著作権なんてものはない、ということ。これは開いた思想の絶対条件。ヌースの思考はもはや個人がやっているものではないということが大前提なの。だよね? 反転した世界には従来の自我は姿を消していて、ヌース(神的知性)は宇宙そのものが展開している思考なわけだから、一提唱者にすぎない半田広宣という人物が「これはオレの思想だ」とか言って私物化してしまったらもうオシマイなわけだよ。過去には「半田さん、少し悪知恵が働く人がいたら、母屋を乗っ取られるよ」と心配して助言をくれた人も何人かいたけど、そうなったら、それはそれで致し方ないこと。ヌーソロジーには力がない!ってことだよ。とにかく、宇宙的精神の力を自我の狭い檻の中で囲うようなオレオレ主義的な動きをしたらヌース自体がそこで死んでしまうと思えばいいよ。常にオープンアクセスで開いた場を作っていかないと思想ってものは必ずゾンビ化するんだ。

 ヌーソロジーを学んでいくと分かってくるけど、ヌーソロジーはOCOT情報をベースにしてはいるものの、極力、宗教的な超越性を持ち込まないように注意を払っている。つまり、多くの人たちと相互了解が取れる論理的整合性というものを大事にしていて、絶えず科学や哲学といった従来の知のフィルターを通した思考法を貫ぬくように努めているんだよね。もちろん、根底に詩的情動という通奏低音を響かせながらだけど。要は、科学と哲学と芸術をミックスさせたような思想運動にしていくのが理想だと思っているということ。科学が持った明晰性と哲学が持った自由性、そして芸術がもった情動性を加味した新しい思考の体系。ここはとても大事なところ。

 英語で宗教のことをreligionと言うよね。この語義はもともと「再び結ぶ」という意味なんだけど、何と何を結ぶのかというと、天と地を結ぶってこと。天と地というのは神々と人間と言ってもいいし、創造者と被造物と言ってもいい。今の世界はこれら両者の関係がバッサリと断絶させられているわけだね。本来、宗教というのはこの失われた結び目を再び結び合わせるためにあるのだけど、今の宗教はそのほとんどが形骸化してしまって、もうその力はなくなっている、もちろん哲学にも、科学にも、ましてや伝統的な神秘主義にもその力があるようには僕には見えない。これら諸ジャンルの言説がすべて判明さのもとに調停され一致を見る新しい理念学というものがあるはずだ————というのがヌーソロジーの信念なのね。それを追っかけていると思うといいよ。

 

 思考というものは必ずしも理性的でガチガチなものとは限らない。象徴的思考や詩的思考といった直観思考というものだってある。だから直観的論理というものだってあるだろう。ヌーソロジーの思考は言ってみればこの直観論理の思考で成り立っていると言ってもいいんじゃないかな。そして、その直観論理を物理学や哲学のみならず宗教や神話の内容も盛り込みながら精緻に裏付けていく。実際、そういうメソッドになっている。この裏付けのプロセスの中で高次元の空間認識というのがセットになって立ち上がってくるのだけど、そこに立ち現れた幾何学的形態を通して個々の自己意識自体の認識をも目指していく。だから、基本的には徹頭徹尾パーソナルユースなものなんだね。とりあえず、最初はソーシャルなものは見ないってこと。結果、個が社会や政治にどう関わるかといったような問題は一旦、エポケーする。徹底して自己の内的意識の成り立ちについてイメージを掘り下げていくわけだね。まあ一種の「霊的引きこもり」と言っていいのかもしれない。もちろん、ここで「ヌーシストたるもの、社会や政治に無関心であれ!」などと言ってるわけじゃない。誤解を恐れずにあえていうなら、社会改革とか世界平和とかいった外的な問題に関しては、あくまでも現段階では通常の社会思想や政治思想の枠組みの中で思考していくべきであって、霊的思考が不十分な段階では安易にそこに霊的なものを持ち込むべきではない、と考えるんだ。

 言い換えれば、各個人の中で霊的な思考が微塵も立ち上がっていない状態では、地上に天上的な調和を反映させるのは全くもって不可能だと考えているわけだね。それは僕らの歴史を見れば一目瞭然だよね。霊性の奪回を錦の御旗のように掲げて地上で展開されてきた思想はほとんどの場合、悲惨な結果を生んでいる。いずれヌーソロジー本論の中で詳しく話していくことになると思うけど、地上的なものと天上的なものを安易に自分という同一性の中で括るな、ってことなの。この両者には絶対的な差異がある。その差異を見極めることなくゴッチャにしてしまうと、社会や他者に対するルサンチマンを増長させることになる。分かりやすく言うなら、自分が不遇で不幸なのは社会のせいだ、こんな社会はぶっ潰せ的なお門違いな方向に走ってしまうということ。

 要は、まだ霊的なものを社会に持ち込むタイミングじゃないってことなんだ。霊性を通して社会を語り心ある共同体を作っていくためには、まずは僕らが現在持っている物質的世界観が根底から変わらないと難しいと思うよ。特に科学的理性が変容を起こさないと無理。たとえば、哲学者にしろ、宗教家にしろ、ビックバンがあったって考えている人がまだまだ多い。彼らはそういう物質的な宇宙イメージをベースにして人間の意識の発生を考えている。でも、物質的なものと霊的なものがどういう関係を持って律動しているかのか、その詳細を語れる人がいるかというと、それは皆無。これら両者をつなぐ思考方法が見つけられないものだから、結局、大事なところは「神」という言葉でうやむやにしてしまう。こんな曖昧さの中で科学は物質界を扱い、宗教は心を扱うといったように、それぞれ固有に領土化してしまっているような状況では、霊的な衝動も必ず物質側に絡め取られ、その状態で社会へと介入していっても霊性自体が極めて観念的なものにならざるをえないから、結局は力を持つことができず、物質的価値観の中に絡め取られていってしまう。世の宗教というもの自体、事実、ほとんどがそういう形態でしか存続していないよね。

 だから、霊性を拠り所にして、世の中のためとか、人のためとか、そういう言葉を簡単に吐くこと自体、自重すべきだというのがヌーソロジーの考え方なんだ。世の中とか社会云々言う前に、とにかく自分自身と向き合わんと何も始まらんよ。そこにがっちりと霊の存在を感じ取れない限り、社会や国家に霊性を反映させるなんてのは不可能。このへんの理由はヌーソロジーを学んでいくうちに徐々に分かってくると思うよ。

 とは言っても、仲間を作っていくことは必要だよね。ヌーソロジーが提唱する変換人型ゲシュタルトの構築作業はとても根気のいる作業だから、同じ志を持つ仲間がそばにいないと挫折しやすくなるのも確か。やはり、何事も楽しくやらないとね。その意味で世界をヌース的に思考していく仲間を作っていくことはとても大事なことではあるね。その意味で言うなら、ヌーソロジーは組織というよりも反転の世界観を持った友同士の繋りとして自然増殖していくのが理想だね。それぞれ一癖も二癖もある個性豊かな連中が、反転した世界イメージのもとにそれこそ多様な活動を展開していく。キザだけど、昔風の言い方をするなら「友愛」ってやつかね。友という関係は、世にある様々な人間関係の中でも、唯一、利害関係で繋がっていないものだよね。そして、親子や家族のように義務も責任も問われない関係でもある。ほんとうは、まず人間全体が友愛の関係の中に結ばれるのが理想なんだけど、それが人間の歴史の中で実現したことは一度もない。いつも、人種や国家や家族が優先される。そして、これは大事なことだから付け加えておくけど、友愛だけが裏切りを許す寛容さを持っている。

内在性の奥から外へと出る道を探すこと

 レクチャーなんかでもよく言っているのだけど、人間は誰もが一つの個として生きているよね。でも、この個はその中に二つの相反する個を持っている。一つは社会的個としてのわたしであり、もう一つは精神的個としてのわたしってやつ。社会的個というのは、国籍や性別や名前を持ち、父であったり、母であったり、また、職業的な肩書きを持たされている個のことだね。もう一方で、純粋な生命として存在させられている個もいる。この個には国籍もなければ性別も名前もない。つまり、これは純粋な魂、生命として生きている「わたし」のことと言っていいと思うよ。夜空にきらめく星々を見上げたとき、誰でも言い知れない崇高な感情に満たされるときがあるでしょ。そのとき、人は普遍と向き合い、自分自身の中で打ち震えている魂の存在を直観しているんだね。夜空には人間が作った創造物なんてものは何一つない。嫌がおうでも、素の自分自身という存在が意識させられるってことだよ。

 少し考えればすぐに分かると思うけど、この社会的個と精神的個はすこぶる仲が悪い。戦争なんかが典型的だよね。社会的個は自らの身を保証してくれる国家を何とか守らねばと戦いに備えて身を構える。一方、精神的個の方は戦争なんて勘弁してくれよぉ〜と心の中で叫んでる。戦争は極端な例だけど、誰しも経験あるんじゃないかな。現実を一生懸命生きようとすれば何か大事なものが失われていく。方や、目に見えない真理の世界を求めようとすれば現実の生活がおろそかになる、といったようなどっちつかずの状態。社会的個を取るか精神的個を取るか————これは人間が持った最大の不条理と言っていいように思うよ。多かれ少なかれ、こうしたアンビバレントさは日常にも満ち溢れている。実際、20世紀の哲学の使命もこの二つの異なる個のあいだの調停をいかに諮るかをずっと考えてきたと言っても過言じゃない。でも、そこに誰も明確な回答を出せてはいない。よって、未だにこの二つの個が仲良く手を取り合うような社会というものは現れてきそうにない。一体なぜなんだろうね ————。

 こう言っちゃ身も蓋もないけど、それは原理的に不可能だからというのが識者たちの答えのようだね。国家でも、資本主義の市場でもいいけど、社会的個が作り出す世界というのは常に個の魂を排除するようにしか動かない。このあたりについてはポスト構造主義の思想家たちがすでにいろんな角度から細かな分析を試みて、一定の結論を出しているようだから興味のある人は調べてみるといいよ。簡単にいっておくとね、社会的個は客観世界に生きて、精神的個は主観世界に生きているよね。この二つの世界の間に何か得体の知れない亀裂があるんだ。内と外の間にある正体不明の亀裂。この亀裂は言葉の世界と知覚の世界の間にある亀裂と言ってもいいよ。この亀裂が埋められない限り、社会という場所と個々の魂は調和的に活動することはできないとされる。この亀裂はほんとうに深遠なものなんだ。

 ちょっと補足しておくとね、この亀裂の発生は人間という生き物自体が他者に「見られること」によって初めて人間になる、という事情から来ている。人間は他者がいなければ自分が自分であるという自己認識は持ちようがないってこと。でも皮肉なことに、この「見られる」という経験の中に落とし込まれることによって、人間は本来の宇宙が持った霊的律動から疎外されてしまうという仕組みが同時にあるんだね。ここに深刻な裂け目が横たわっていると思うといい。自分を本来の自分自身から引き裂く裂け目、人間を宇宙そのもの中に入っていくことを阻害している未知の裂け目。この裂け目の存在によって、個の宇宙的本性自体がこの裂け目自体の中に沈んで見えなくさせられてしまう。

 いずれ明確に分かつてくると思うけど、ヌーソロジーはこの裂け目の中に沈んだ宇宙的個体としての力をサルベージするための思考方法を提案しようとしていると思っていい。この宇宙的個体がサルベージされてくると、今度は自分の内在の奥側から外部世界につながっている「開け」の通路が見えてくる。ここで見えてくる外部世界というのは確かに物質の世界であり、かつ、社会の場でもあるんだけど、今まで僕らが見ていたような外の世界じゃない。それは内在の奥深く入ったところに開けてくる外部なわけだから、内なる外になっている。つまり、対象の世界じゃないってこと。内側の奥なんだから、人々の内なるものがつながってできている真の意味での共同性の場だということなんだ。この新たな共同性の誕生によって、物質世界も社会も全く違った意味を帯びてくるのが少しは想像できないだろうか。こうした空間に認識が触れられるようになったとき、ヌーソロジーはソーシャルなものについて語っていくことができるようになるんだと思っている。だから今は何か言いたくても我慢する(笑)。 この記事だけでは何を言っているか分からないかもしれないけど、ヌーソロジーの思考を追いかけていくうちに、ここに書いてあることの意味が手に取るように分かってくると思うよ。いずれね。

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