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第5回ほんとうのボーダーレス―新しい精神の原野へと出発しよう

TEXT BY KOHSEN HANDA
第5回ほんとうのボーダーレス―新しい精神の原野へと出発しよう

さて、今日は前回の続きのような話になるけど、ヌーソロジーがこれから何をしていきたいのかという点について少し話をしてみるね。

「ヌース理論」から「ヌーソロジー」へ

 2006年の秋頃だったかな。当時、ヌースアカデメイアのサイトの方で「カフェネプチューン」という会議室を運営していたんだよね。『人神』や『シリウス革命』といったヌース本を読んでヌーソロジーの存在を知った人がたくさん集まって来ていて、皆んなで楽しくワイワイガヤガヤとやっていた。ピーク時には1日千人近い人が訪れていたんじゃなかろうか。とにかく、そのくらいの人気サイトになっていた。

 あるとき、そこに荒らしがやってきてね、それも複数で。明らかに何らかの悪意を持って攻め込んできたって感じだった。まあ、今でいう炎上というやつだけど、その対応に四苦八苦したんだよね。攻撃してきたのがどこの誰だかは分からないけど、やはり”理論”好きの連中で、僕が「ヌース理論」と銘打って活動していたものだから、理論の重箱のすみをつつくようなやり方で、ねちっこく、執拗に批判してきたわけだね。こういうことをやる人たちは、会って直に話をしてみればそんなに悪い人たちじゃないんだけど、ネット上ではあたかも悪霊でも乗り移ったかのように悪意の塊となって襲いかかってくる。ナイーブは僕としては、かなり落ち込んだものだよ(笑)。それが一つの原因となって、会議室を運営していく熱意が失せてしまって、カフェ・ネプチューンを廃止しちゃったんだよね。いろんな分野の人が集まっていたので、今ではもったいないことをしたなと思ってる。

 で、それからというもの、僕はヌースの思考体系を「ヌース理論」と呼ぶのはやめにした。ニュートンの理論でも、アインシュタインの理論でもいいんだけど、だいたい理論と呼ばれるものには人名がセットになっていて、「誰の ?」という固有名がいつもこびりついてるよね。「ヌース理論」という呼称だと結局は、半田なにがしというヤツが発案した理論云々ということになってしまう。つまり理論というのは見た目とは裏腹に自我の情念で領土化される運命を持っているということなんだ。もし宇宙的ロゴスによる理法というものがあるのなら、それは人と人との垣根を取り払っていくべきものであるはずなのに、逆に自我を底支えするように働いているところがあるわけ。これは何も科学理論に限ったことじゃないよ。極論すれば、キリスト教とイスラム教の対立だってイエスとマホメットの神に対する見解の違いから来てるとも言えるだろ。宗派の分裂に見るように、思想におけるセクト闘争なんかも全部そう。ある理論と別の理論がぶつかり合うと、オマエの理論は間違っている、いや、アンタの方が間違っている、なんていった論争が必ず起きてしまう。まぁ、科学的論争については実験検証が決着をつけるからそれなりに白黒の決着は着くわけだけど、宗教や哲学の理論となるとそうはいかない。実際、歴史的に見ても宗教や哲学の世界ではいろいろな論争があったわけなんだけど、論争のレベルが高かろうが低かろうがこうした論争はほとんどが不毛だということが分かる。無意味。なぜかというと、大方の論者は、相手の否定によって自分の正当性を主張したいだけだからね。この「否定の先行性」というのが大変よろしくない。理論という言葉の裏には、いつも暗黙のうちに「オマエは間違っている、だからオレが一番正しい」という傲慢さが入り混じっているわけだ。言明というのは結局のところ誰かが行うわけだから自我の情念が混り込むのは当たり前の話。それなら、必要以上に他者を刺激する「理論」という言い方は止めにして、一つの「思潮」という形で進めていった方がいい。領土化の境界を消すわけ。そう判断して、僕は自分の行っている作業を「ヌース理論」と呼ぶのをやめて「ヌーソロジー」と呼ぶことにした。確か2008年頃だったと思うよ。

新しい思考のOSを作る

 ヌーソロジーは確かにいろいろなモデルを使って哲学的な理論の体裁をとっているんだけど、その根底にあるのは従来の人間の空間認識の枠組みを大きく変えていこうという試みだから、理論というよりも、今までにはなかった未知の認識形態のためのプラットフォーム作りのようなイメージで捉えておくのがベストだね。科学理論でも哲学理論でも宗教理論でもないんだけど、同時に科学理論でも哲学理論でも宗教理論でもある、といったような変な言い方しかできない。学んでいくと徐々に分かってくると思うんだけど、世界に対する見方自体が根底的に違うので既存のいろいろなジャンルの枠には収まらないものになっているんだ。いわゆるオンリーワンであり、エブリワンでもあるということ。表現が難しいのだけど、一言でいうなら、科学とか宗教とか哲学とかいったソフトを動かしてきたOS自体をヴァージョンアップする、ってな感じかな。ソフトをいろいろといじるのではなくて、OS自体の取り替えを行うってこと。

 OSを変えるってのはどういうことかと言うと、今まで僕らが学校で習った科学的世界観をベースにした世界の常識をすべてエポケー(判断中止)したところから、宇宙の全体像を人間の内在の側から再構築していくってこと。それが「反転」が孕む本意なの。宇宙の在り方を物質中心の世界観から精神をベースとした霊的世界観へと全部、裏返してしまおうという試み。「日月神示」ってのがあるけれど、あれで言う「グレンとひっくり返る」というヤツだね。宇宙自体の存在のあり方自体をその根底からグレンとひっくり返す。もちろん、ヌース的マルチョンをつかってね(笑)。

科学が持った知的な権力と、宗教やスピリチュアリズムに混入している心的な権威を乗り越えること

 2010年頃だったと思うけど、科学ジャーナリズムの世界で面白い事件が起こった。あの車椅子の天才と呼ばれる物理学者のホーキングが『グランドデザイン』という自著の中で、「科学が宇宙の起源を説明することは可能であり、ビッグバンは神に点火してもらう必要などない」と書いちゃった。つまり、宇宙の創造には神はもう必要ないってことなんだけど。当然のことながら、この本の内容に対して欧米のキリスト教関係者からものすごい反発が起こってね、ローマ法王までもが「宇宙は、ある者たちが我々に信じ込ませようとしているように、偶然の産物ではありません」と声明を出して、暗にこのホーキングの発言を否定するようなコメントを出したんだ。ホーキングは前々から「神は必要ない」などとい言って、反キリスト教的な発言をしていたから、教会に目をつけられていたんだろうね。さすがの法王ももう黙っているわけにはいかなくなったというわけ。

 僕はこの事件を知ったとき、正直、少しウンザリした。世界は未だに宗教と科学が知的権威と知的権力という形で支配権を分かち合っている。そのことに改めて気づかされたからなんだけどね。これは出言ってみれば出来合いのレースのようなもので、互いが互いの縄張りにしゃしゃり出てこないように暗黙のうちに協定を作っているということであるよね。つまり、物質と魂が相互不可侵条約を結んでいるってことだ。世界は物質なのか霊なのか————この問題を突き詰めようとすると互いに必ずボロが出る。ここは衝突しないようにうまくやって行こうって感じで、全面衝突を避けているわけだ。ホーキングはその暗黙の協定に違反してしまった。それで教会側が釘を刺す。だらしないのは哲学だよね。ほんとうは哲学が科学と宗教を結ぶ仕事をしなくちゃいけないんだけど、カント以来、理性を超えた世界については哲学も何も語れないって立場を決め込んじゃったものだから、結局のところ、哲学者たちの多くも科学的世界観を前提にして哲学するしかないといったような、そんなもやもやとした状況が今でも続いている。現在の哲学シーンのつまらなさもこの越境禁止令に起因している。

 前に少し顔を出したけど、ドイツの神秘哲学者R・シュタイナーの表現に「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」という言葉がある。この両者はシュタイナーに言わせれば、人間の意識を支配する悪魔の二つの属性ということになるのだけど、悪魔というと、若干、ホラー映画っぽく響くので、人間の意識が持った好ましくない二つの傾向性ぐらいに解釈しておくといいかな。ここで話題にしている科学と宗教というのが、シュタイナーに言わせれば「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」の代表と言っていいと思うよ。つまり、どちらの価値に傾こうが、それは人間にとっては好ましい状況をもたらさない、ということ。

 シュタイナーはアーリマンは思考に、ルシファーは感情にそれぞれ作用すると言ってる。アーリマンが思考に取り憑くと思考はカラカラに干からびる。潤いのない砂漠のような世界が出現してくるわけだね。科学的思考を支配している唯物論的な思考がこれに当たると思っていい。世界はすべて単なる物質でできていると考えるわけだから、当たり前の話だね。現在は、多くの人が科学的宇宙観を自らの常識としているわけだから、現代はこのアーリマン的なものが強く支配する時代と言える。確かに、今の世界は砂漠化してると言えるような状況ではあるよね。

 一方、ルシファーの方は、逆に、宗教が持った幻想性や熱狂に働きかけ、人間の感情を揺り動かす。狂信的なカルト信者なんかはその典型と言っていい。これら両者は二つとも同じ穴のムジナなんだ。互いに敵対しているというよりも、実は物質と霊との分離が起こるところにかならず芽ぶいてくる悪魔の二つの在り方と考えるといい。実のところ、両者は裏では互いに強く結ばれあっていて、互いが互いを補完し合っているわけだね。

 シュタイナーはこのアーリマン的なものとルシファー的なものの調停を行う意識をキリスト意識と呼んでいるんだけど、これは調停とは言っても、今の科学と宗教の関係のように互いの知的縄張りを保持し合い、物質的思考と精神的思考のバランスをとるといったような消極的な意味じゃない。双方の乗り越えのことを言うんだよね。つまり、二つはまったくメタな視点で統合されてしかるべきであるということ。そして、その乗り越えが起こると、それぞれの働きは全く別のものへと転換されると言うんだけど、シュタイナーはそれを「叡智」と「愛」だとしている。これは、ヌーソロジーから見てもほんとうに深い言葉だと思う。果たして科学的知性が「叡智」に変わり、宗教的知識が「愛」に変わるなんてことがあり得るのだろうか。変わるとすれば、それは一体どのような意識的状況においてか。シュタイナーもこれについては具体的には話していない。

民衆のためのポップな宇宙哲学というものは果たして可能か

 前にも話したように、僕自身、OCOT情報を解読するために実にいろいろなジャンルの知を漁ってきた。ヌーソロジーはそれこそチャネリングがルーツなわけだから、当時流行していたチャネリング本は言うまでもなく、カバラを始めとする西洋の神秘思想や、さらには現代物理学、哲学、現代思想というように、諸ジャンルの知を飛び回るようにグルグルと周回したわけだね。よくもまぁ根気強く解読し続けたものだと自分でも感心しているのだけど、おかげで、それによって見えてきたことがいろいろとある。

 結論から言うと、現代物理学も現代思想も現代スピも伝統的宗教も実は同じ目的地を目指して動いていっているということ。でも、とても残念なことに、それぞれのジャンルが自我の嗜好性によってステレオタイプ化し、互いが互いを受け入れないような状況を作っている。現代思想をやっている人は科学の世界観が単なる素朴実在論だと言って批判するだけだし、科学者たちは哲学者たちの考え方を明晰さに欠けると言って相手にしない。もちろん、双方ともオカルトは大嫌いだね。で、その当のオカルトティストたちはと言えば、科学にも哲学にも人間の本質は分かるはずはないと決めつけて、旧態依然としたオカルト用語を操るのに忙しい。スピ系の人はと言えば、科学にも哲学にも感心を抱かないどころか、オカルティズムにすらほとんど関心を示さない。そのときそのときの自分の感性の枠の中だけでしか動こうとしない。こうした状況はもちろん世界共通、どこにでも見られる風景だけど、日本の場合は、特に明治以降から国を挙げて西洋の近代化を推し進めてきた経緯があるから、余計にたちが悪い。ここでもやはり問題になるのは各々の学識が持っている権威というやつだね。哲学を知らない奴が哲学に口出すなとか、物理学を知らない奴が物理学の話をするなとか、挙げ句の果てにオカルトの世界までがまでそうなのだから、自我によるこの知的権力の囲いというのはほんと手強い。

 そろそろ僕らは気づいてもいい頃じゃないだろうか。そうやって知識が各々バラバラに境界を作って自分の専門領域を守っている限りは、結局のところ、人間の精神に何一ついい影響を及ぼすことはないって。もう、それぞれが専門的な方向に分化していく時代じゃないと思うんだよね。専門性というのは無数の言葉を発明して、知識をどんどん複雑にしていくよね。これがいかにほんとうの知の在り方に逆行する流れかは直観的にわかるはず。OCOT情報が指摘していたのもそこだった。ちょっと引用するね。

「そろそろ、あなたがたも真の創造と破壊について考える時期にきているのではないですか。」

「真の創造と破壊………ですか………?」

「真の破壊とは、実はあなたがたが創造行為と思い込んでしまっているもの、つまり、事物の多様化や情報の無限増殖にあるのです。あなたがたの科学は目の前に与えられた自然を分析し、それに伴い多種多様な言葉を作り出していきますが、その知識体系が膨らめば膨らむほど、人間にとって最も重要な精神原理が失われていっていることを知らねばなりません。物質的知識の多大な習得にもかかわらず、 それによってもたらされてくるものは精神的秩序の深刻な喪失なのです。この喪失こそ宇宙的な意味での真の破壊と呼んでいいものなのです。あなたがたは、文明の進化に加速度を与えてきたもの、すなわち、あなたがたに創造力や思考の多様な発現を与えているその源泉を神と呼んでいるのではありませんか。目の前に与えられた自然に対し、その秘密を解き明かし、神の創造行為にその個的な意志を以て人為的に加担すること………おそらくあなたがたはそれらの作業を人間に与えられた貴い創造行為だと信じ込んでいるはずです。しかし、タカヒマラが最終構成に入れば、もはやこの存在は宇宙的秩序の破壊をもたらす偽りの神であり、オリオンとの連結を喪失させ、宇宙を死に至らしめるものとなるでしょう。」(『2013:人類が神を見る日』より抜粋)

 OCOTがここで言っている「タカヒマラ」というのは人間の意識を律動させている無意識の構造のようなものと思うといいよ。「オリオン」というのは無限に向かって開かれている存在の外部性のようなもの。

 今、僕たちに望まれているのは、それぞれの枠を乗り越えて相互に横の連携をもたらす知識なんだと思うよ。宗教と科学、科学と哲学、哲学とオカルティズム、オカルティズムとスピリチュアル、こうしたそれぞれの自我境界を無効にするような新しい思考をつくっていく時代なんだよ。

 そして、一番重要なことは、このような思考が生み出す産物はあらゆる人に理解可能なものであり、共通了解が取れるものであること。そうした思考はその新しさゆえに、最初は面食らうような難しさはあるものの、その難しさは決して今までの理性が表現してきたような難解さは持っていないと断言できる。もしその難解に感じるのであれば、思考の質の違いからくる馴染みのなさという難しさであって、一度、馴染んでしまえば、シンプルで美的で、晦渋な言い回しなど全く必要としないストレートな論理を持っているはず。なぜなら、それは、もはや個体別に所持するような知識ではなく、宇宙自体が展開している思考だから。言ってみれば、民衆のための生きたポップな宇宙哲学になっているということ。

 ヌーソロジーはそうした思想を目指してる。

 え〜!!全然ホップになってないじゃん!!って声があちこちから聞こえてくるのだけど、そうした反応は予想済みだぜ(笑)。僕のところにも、ヌーソロジー難解、難しすぎ、もっと一般の人のこと考えてよ〜、等、いろいろな意見が寄せられるんだけど、これだけは言わせてね。

「ヌーソロジーとは今までには存在したことのない思考様式を作り出すための方法論」————なんだ。つまり、全く別のものなの。僕たちが何か新しい考え方に対して「分かりやすい」というとき、それは自分たちが今まですでに持っていた考え方や概念を、新しく並べ替えて筋道を作って示すから「分かりやすい」となるんだよね。そういうときは、その考え方の中に古いものしか見出さないので、勝手がわかるように感じて、腑に落ちたと感じ、「分かる!!」という反応が起こる。今、ヌーソロジー求められている「分かりやすさ」というのもそういうものだと思う。

 でもね、僕自身が原典となるOCOT情報の解読に長い時間を要し、その内容についての理解が進むにつれ、ここには人間が今までに持っていた考え方はほとんどないと感じだんだ。本にも書いたよね。異質、異様極まりないって。当たり前だよね。今までの人間の意識の在り方がすべて反転したころにある意識の在り方なんだろうから、僕らが、普通にいう「分かりやすさ」なんてものはほとんど望めないと言って差し支えない。ヌーソロジーが分かりやすいものになっていくためには、そこに登場してくる概念を一つ一つ丁寧に組み上げていって、それに親しみ、まずは慣れっこになるということが必要だね。そして、それが古いものに感じとられてくるようになって、はじめて、それらの概念を通して、「わかりやすい」という感覚が生まれてくる。たぶん、そういうものだと思うよ。  もちろん、そういうものと思いながらも、僕自身は一生懸命、なんとか分かりやすいものにならないだろうかと、必死に努力はしている。でも、能力の限界ってのもある(笑)。今、ネット上では川瀬さんやΦさんやRaimuくんといったベテランヌーシストたちが、自分たちが理解した範囲内でヌーソロジーを一生懸命、解説してくれている。それぞれに個性があって、とてもいい内容だし、僕なんかよりよっぽど分かりやすく書いてくれている。これでいいと思うよ。「意識の反転」という共通のベクトルのもとに、ヌーソロジーをヒントにして多くの人が多種多様な自説を展開し、その中で議論の場が生まれていく。最近はアニマンダラさんの反転の生物学のようなものも登場してきたしね。物理学の分野に関しても砂子さんとか佐藤さんはもうその方向でしか思考していない(笑)。ヌーソロジーは、その意味で、科学主義に変わるこれからの時代の人類共通の思考のプラットフォームのようなものを提供したいだけなんだよね。つまり、新しい世界観の土台ってこと。ヌーソロジーを学び出すと自然とこのことの意味が分かってくると思うよ。

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