背に腹は変えられない
「前」についてばかり話していても何なので、ここで「後ろ」についても少しだけ触れておきましょう。
言うまでもなく、「後ろ」は見えません。視覚的現実としては、「後ろ」は存在していないのも同然です。その意味で『人神/アドバンスト・エディション』では、「後ろ」のことを〈想像的なもの〉と書きました。前が〈現実的なもの〉。後ろが〈想像的なもの〉。これはフランスの精神分析学者ラカンの言う「現実界」や「想像界」という言葉をある程度、意識した上での表現です。
見ること自身が光であり、かつ、それが「前」の異名であるのならば、「後ろ」とは「見えないこと」そのものの仮称であり、それは「闇」の世界とも言えます。しかし、残念なことに、ラカンの「鏡像段階」論を素直に受け入れるならば、人間という存在はこの闇に依拠して初めて成立することが可能となるような生き物です。というのも、この理論では、人間、すなわち、自我の在り方は、本来、他者の眼差しの中に晒(さら)されることによって、そこから初めて受動的なものとして立ち上がってくるような存在だからです。他者の眼差しに映されたわたしの顔。。。自分の顔は自分には決して見ることができないわけですから、主体は自分の顔を他者の視野という鏡を使って想像的に見るしかありません。そして、その想像的な像に自分を同一化させることによって、初めて自分が顔を持つ人間なのだということを知ることができているというわけです。
ここで、実際に鏡を覗いてみましょう。わぁ、変な顔! 余計なお世話です。しかし、よくよく見てみると、そこに映し出されているのは「わたしの顔」と言うよりも、わたしの「後ろ」と言った方がより正確です。つまり、顔というのは、わたしの背後世界を代表している代理表象なんですね。「前」=知覚正面そのものとしてあった無垢な原初的主体が、他者の眼差しに映し出された顔と同一化することによって、そこに自分を重ね合わせてしまう。「後ろ」へと反射する「前」。ここで知覚正面は一気に知覚背面へとその表裏関係を反転させられ、そこに「後ろ」を引き連れた「後ろ」の王としての自分の顔面イメージが登場してくることになります。この顔面イメージはその意味で、本来、単独者(世界にはわたししかいないと感じているわたし)であった主体に貼付けられた個別者(世界にはたくさん人間がいて、わたしはその中の個であると考えるときのわたし)としての仮面(ペルソナ)となります。つまり、顔面とは知覚背面のことでもあるのです。そして、その面には半田広宣という固有名が与えられ、社会的存在として登録される。こうしたペルソナが見ている「前」は、もう、言葉を知らない幼少期の頃の「前」ではなくなっていることを今一度確認する必要があります。フロイトの言った通り、「幼年時代は、そのものとしては、もう無くなってしまっている」のです。
普通に、私たちが「わたし」と言うとき、その「わたし」は、『人神・アドバンストエディション(P.407)』にも書いたように、他者にとっての他者として把握された「わたし」であって、こうした「わたし」が前方に見ている方向はもはや他者の後ろでしかありません。自己と他者の向かい合いにおいて、それらを単に自己と他者の肉体的な配置として考えれば、わたしの前方が他者の後方になっていることは自明ですが、見える世界が常にわたしの前でしかないという「現実」を踏まえれば、普通に私たちが「前」と呼んでいるその自明な方向はすでに現実としての前ではなくなっているわけです。それは私たちが普通に用いる「前を見る」という表現に端的に示されていますね。「前」とは本来、対象ではなく、主体自身だったわけですから。。。
こうして、ヌーソロジーの文脈でいう、「前」自身を自分自身だと直観する「位置の等化」という作業は、フロイト-ラカンが言うところの「エスのあったところに自我をあらしめよ」という精神分析の目的とするところとほとんど同じものであるということが分かってきます。無意識の主体とは「前」、つまり、現象そのもの中に潜んでいるということです。いや、もっと言えば、伝統的なスピリチュアリズムが言い伝えてきたように光そのもののことだと言ってもいいでしょう。ヌーソロジーの文脈では、このような光は覚醒した光と呼んでいいものであり、物理学的には、それはもはや光ではなく、電子と呼ばれるものになります。
コ : 電子とは何ですか。
オ : 光の抽出です。
結論を言えば、私たちが普段「前」に感じている空間の広がりとは、わたしの後ろを無意識的に前側に回転させて想像しているものか、他者の後ろか、そのどちらかだということです。そこには本当の「前」は存在していません。そして、このような「後ろ」の集合を私たちは「時空」と呼んでいるわけです。時空とはまさに鏡の中の世界だと言えるわけですね。深~い、深~い、底なしの時空という広がりの中心に小さく小さく縮んでしまい、行方不明となっている私たちの「前」。ヌーソロジーの考え方では、そこが物理学者たちが内部空間と呼んでいるものの入り口になります。この空間を再発見していく者たちが「変換人」と呼ばれる新しい民衆です。彼らは言わば、思考の未来形式のもとに、新しい生成の大地を切り開いていく上昇する天使群と呼んでいいものです。
ナルシスよ。君はどうしていつも水の中ばかり見てるんだい?
そこに映った少年の美しさは僕にもよく理解できるけど、
君に思いを寄せている少女のことを、君は考えたことがあるのかい?
その少女は君にはもう当たり前の存在となって、
確かにもう視野にさえ入っていないかもしれない。
話すことと言えば、君のリフレインばかりだしね。
でも、君が彼女に向かって「愛してる」と一言、言ってあげれば、
彼女は必ず、その愛に答えてくれるんだよ。
君は君の仲間と愛を分ち合うことが一番だと思っているようだけど、
それは所詮、君の自己愛にすぎないんじゃないだろうか。
だから、聞いておくれ、ナルシスよ。
君はまず、君の目の前のすべてに向かって、
「愛してる」って叫ぶ必要があるんじゃないのかな。
そうすれば、全世界から、その叫びがエコーとなって、
君のもとに返ってくる。
そのとき、君のそのうつろな目に、
初めて水上の光が差してくるんだと思うんだけどね。
――つづく