NOOSOLOGY ヌーソロジー

時間と別れるための50の方法 Vol.7

TEXT BY KOHSEN HANDA
時間と別れるための50の方法 Vol.7

現在、このブログでは2008年の2月に出版した『2013:人神が神を見る日』のアドバンスト・エディションの補足となる内容を思いつくまま書いている。その中でもとり分け「人間の外面」と「人間の内面」というヌース用語の基本とも言える言葉についてより理解を深めてもらうために、身体における前-後という概念について少し掘り下げて話してみようと思う。というのも、アドバンスト・エディションにも書いたように、この「人間の外面と内面」というヌーソロジー特有の概念がそれぞれ身体における「前の空間」と「後ろの空間」に対応していることがようやく分かってきたからだ。

 私たちの意識は普段、3次元空間の中に落ち込んだ位置で空間について思考しているので、「前」と「後ろ」という方向性のトンデモない差異にほとんど気づいていない。おそらく、ヌーソロジーが今まで次元観察子と呼んできた無意識が形作っている高次の次元構造は、つまるところ、身体における前・後、左-右、上-下という三つの方向性が持つ本質的な意味と重ねられて語られていくことになるのではないかと思う。自他におけるこれらの三つの身体空間の方向性の絡み合いが作り出す意識の働きのすべてが見えてくることになれば、それはヌーソロジーで言うところの次元観察子ψ1~ψ12までのすべてが顕在化したということにおそらく等しい。

 ということで、とりあえずは前回の『時間と分かれる50の方法(6)』で紹介した「後ろ」についての話に戻って、「前」と「後ろ」の、そのトンデモない差異というヤツを露わにさせていくことにしよう。

 「後ろ」は見えません。私たちが「後ろ」と呼ぶ方向には、「わたしの身体の後ろ」と「正面に見えている対象の後ろ」という二通りの後ろがありますが、どちらも見えません。この二種類の後ろに共通しているのは、向かい合う他者側から見た場合、いずれもその他者の「前」という方向の中に収めることができるということです。私にとって見えないこの「後ろ」を見たいとき、私たちが使う道具が鏡です。その意味で、鏡というのは他者の「前」の代用品という言い方ができます。ですから、鏡は自分の前方向に自らの後方向を出現させることができます。ということは、見ている自分を前に映し出す鏡というものは、その本来が「バックミラー」と呼ばれてしかるべきものであるということが分かります。鏡とは後ろを見るためにあるものだということです。

 そこで、皆さんも、朝起きて洗面所の鏡の前に立ったときの自分の姿を思い出してみましょう。普段は寝ぼけ眼で見ているから気づかないと思いますが、そこで鏡に写っているのはやはり「後ろ」の世界です。ということは、次のような推測が成り立ってきます。

――私は自分の顔が前方向にあるとばっかり思っていたが、鏡に映し出されている世界は私の「後ろ」側の世界なのだから、顔は「前」に付いているというより「後ろ」についていると考えないといけないのではないのか――ちょっと奇妙に聞こえるかもしれませんが、このことは、前を見るにしても、後ろを見るにしても、そこには、それぞれ二つづつの視線の方向があるのではないかということです。

 普通、私たちは文字通り自分の前方向を「前」と呼んでいますが、自分の顔がある場所も「前」のように感じています。というのも、顔と反対側にある部位は「後頭部」と呼ばれ、文字通り「後ろ」にあるものとされているからです。でも、これってちょっと変です。なぜなら、「前」とは見える世界が存在している場所の方向を差している言葉のはずなのに、自分の顔は見えない世界側に属しているからです。自分の顔が「前」にあると認識している意識は、普通に「前」を「前」と認識している意識とその方向性が完全にひっくり返っているにもかかわらず、人間はその方向性の違いに無頓着で、それらを一緒くたにして混同してしまっているんですね。正確に表現するなら、ほんとうは私たちが後頭部と呼んでいるものの方を実は「前」と呼ぶべきであり、顔面は私の背後世界の方向に存在している対象と考えるべきなんです。

 私には見えない後ろ側の風景をいつも引き連れているであろう自分の顔。この顔は自分自身ではその実物を決して見ることができず、鏡像を通した想像力でしか捉える術がないのだから、とてもリアルな顔面とは言えません。自分にとっては自分の顔面はあくまでも「仮面」なのです。そう、ペルソナ(persona)ですね。そして、このペルソナである「顔」が人間としての個体性を養う土台となって、そこにパーソナリティー(personality=人格)というものを作り上げられていくことになります。こで人格と言ってるのは、いわば現象(世界がこうしてあること)に浮上してくるすべての意味の統括者としての自我存在のことを意味しています。

 ですから、私は半田広宣という仮面を被っており、ここでの語りもまたすべてその仮面による語りと感がなければいけません。おそらく、この語りを聞いている皆さんも、すべて仮面をつけた自我存在としての皆さんでしょう。

 そこで、この半田広宣はほんとうの顔って何だろうと考えるわけです。仮面ではないほんとうの自分の面とは何かと。これは、昔風に言えば「面(おもて)」ということになるでしょう。時代劇とかで「面を上げぇ~い」とか言うでしょ。アレです。「面を上げぇ~い」と言われれば、昔の人だって当然、顔面を上げてしまうことでしょうが、顔面は仮面なのだから、面(おもて)ではありません。とても興味深いことに、シリウスファイルにはこんなやり取りがあります。

 コ : 人間が見ている世界とは何ですか?

 オ : 面(めん)です。

 シリウスでは「面(めん)」というのは眼に見える世界そのもののことを言うようです。ありゃま? ひょっとして、それって「前」のこと?見えてる世界そのものが私の面(おもて)ってことなのでしょうか?

 そうです。OCOT情報のいう「面(めん)」とは、私が『人神/アドバンスト・エディション』の中で「不動の視野空間」と呼んだものそのもののことを意味します。。。。

――つづく

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