今日はヌーソロジーがどのようにして産声を上げたのか、そのきっかけのお話。
『2013:人類が神を見る日』を読んだ人はすでに知ってるように、ヌーソロジーの出自は「冥王星のOCOT(オコツト)」と呼ばれる意識存在からのチャネリング情報にある。このチャネリングは1989年に起こったのだけど、その概略を『シリウス革命」から引用するとこんな感じです。
最初に、その声が頭の中に響いてきたのは、確か一九八九年十一月十一日のことだった。
声は自らを「冥王星のオコツト」と名乗り、シリウスの働きによってこの地球への交信を開始したということだった。
オコツトは冥王星が海王星軌道の内側に入っている期間(1979年~1999年)のことを、「最終構成期」と呼び、太陽系がグランドクロスを作る一九九九年の七月か八月ごろに、そのプログラムは終了する予定だと伝えてきた。最終構成とは、現在、プレアデス領域に生み出されている人間の意識の働きを、シリウス領域へとシフトさせていくための最終プロセスのことをいう。最終構成によってシリウス領域へと遷移させられた人間の意識は、またたく間に変容を起こし、「変換人」という全く新しい生命体として生まれ変わる。そして、今度は、シリウス領域よりさらに上位に存在するオリオン領域へと意識を上昇させるための作業に移る――彼の送信してきた情報の骨子はおよそこのようなものである。
当然のことながら、当時の僕には、このような話は全く理解不能だった。チャネリングという言葉は精神世界やニューエイジ関連の本で知ってはいたが、僕自身どちらかというと猜疑心が強いタイプだった。そのため、たとえ自分に降りかかっている現象であっても、この手のコンタクトは神経症の一種としか見なせなかったのである。とはいえ、頭の中に四六時中響いてくる声を放っておく訳にもいかない。そこで、自らの精神を安定させるためにも、とにかく、彼と交わした会話のやりとりを一字一句漏らさぬように、リアルタイムでワープロに打ちこむ作業が始まった。
交信から一ケ月、三ケ月、半年……。月日が経つにつれ、オコツトとの交信ファイルの量は膨大なものとなっていったが、僕には、次第に、この異様な意識体験が、単なる自意識の産物とは思えなくなっていた。なぜなら、そこに蓄積されていく情報の中に、極めて抽象度の高い哲学性を感じ始めたからである。それからというもの、交信ファイルの解読に明け暮れる毎日が続いた。ファイルに対して理解のとっかかりが見え始めたのは、交信開始から約三年後、一九九二年も半ば過ぎた頃だったと記憶している。
(半田 広宣著『シリウス革命』/たま出版より抜粋)
今でもOCOTと交信をとっていたときの記憶は鮮明に残ってる。1989年といえば、日本でも「バシャール」などがアメリカのニューエイジの流れで入ってきて、精神世界の内部では徐々にチャネリングブームが巻き起ころうとしていた頃だったよね。バシャール以後、90年代はいろんなチャネラーが日本にも現れてきて、スピ業界はそれこそ「石を投げればチャネラーに当たる」といったような状況になっていったのでだけど、僕もそのワン・オブ・ゼムと見られたらしく、講演会を開くとそれこそイっちゃってる系の人がたくさん集まってきた。まぁ、僕もイっちゃてると言えば、群を抜いてイっちゃてるとも言えるわけだけど、チャネリング経験者として一言言わせてもらうなら、チャネラーの世界もピンキリ、一流から三流までいろいろいるんだよ(笑)。
よく、スピ系の人たちは別のエンティティー(チャネリングの相手となる意識存在)との接触を「コンタクト/contact」と英語で表現してるよね。でも、コンタクトじゃ面白くも何ともなく、本当は「インタクト/intact」じゃないといけないってのが僕の持論。「インタクト」とは「損傷を受けていない、傷がない完全なままの、失われた部分がない… 」といったような意味なんだけどね。
チャネリングのメカニズムについて何を知ってるわけでもないから偉そうな言い方はできないのだけど、少なくとも自分の経験から言わせてもらうなら、チャネリングは無意識層で起きた霊的地震による魂的マグマの流出のようなものなんだよね。確かに意識の深みで何らかの働きかけが宇宙から起こっている。しかし、その働きかけも日常の顕在意識レベルに浮上してくるまでに、チャネラー自身の潜在意識層を通過して、最悪の場合は、顕在意識層で歪曲をされちゃったりもする。レベルが低いという言い方はしたくはないけど、とにかく、チャネラーの風上にもおけないようなチャネラーもいる(笑)。
別に自分が経験したチャネリングを特別視するつもりはないのだけど、いかんせん、世に出回っているチャネリング情報は中身がないものが多すぎるよ。僕のいう中身とは別に科学的裏付けがあるとか、伝統的な霊学の見地から見ても遜色がないとか、そういうことではなくて、人間精神の個的自立を促しているものであるかどうか、その一点に尽きるね。ヘタすると、旧態依然とした新興宗教の教祖のように振る舞う大勘違い野郎もいる。こうしたチャネラーは言ってみれば、損傷受けまくりのチャネラーと思ってもいいよ。百害あって一利なし。その点、僕とOCOTの邂逅は紛れもないインタクトです。保証します(笑)。つまり、人間の自我の意識層による損傷を何一つ受けていない。だから、僕にも最初は彼が何を伝えたいのかがまったくわからなった。そういうことなんだと思ってる。日本語でありながら全く意味不明の言語で埋め尽くされていたからね。これがもし僕の狂気の産物であったなら、その解読に当たって、僕の思考はすぐに行き詰まってしまったに違いない。しかし、事実は真逆だった。OCOT情報というものは解読が進めば進むほど、恐ろしいほどの精度を持って繋がっていくんだよね。これは経験からハッキリと言えること。僕らの常識では全く無関係のように見えていたものが、次から次へと連結していき、単にスピ系の知識のみならず、科学や哲学や現代思想とも当然のようにリンクして、それらすべての関係性がどのようにうごめいているのか、そのランドスケープを露わにしていく。そして気づいたときには、それらの知識をすべて別種の概念体系で見通すような宇宙に対する新しいパースぺクティブが開かれてくる。そう、それは今までのスピとも、宗教とも、哲学とも、そして科学とも全くちがったものでありながら、それらをすべて飲み込んでしまうような高次の宇宙観のようなものなんだ。
それはそれは興奮ものだよ。
ということで、ここで参考までに実際の「シリウスファイル」に記録されている最初のページの部分を紹介しておくね。日付は1989年11月22日。これは交信が始まって、まだ間もない頃の、ごくごく最初のやりとりだね。
交信記録 19891122
光とは ?
変化の際に出る力の波
何の変化ですか ?
シケイの作り出すもの(現在は「思形」と字を当てています)
シケイとは何ですか ?
ヘイエイホウフェ(あとに、「ヘイケイトウエイ=平形投影であるということがわかります」
ヘイエイホウフェとは ?
タカヤマラのようなもの(タカヒマラのことです)
タカヤマラとは ?
典型的な方向を持つ地球の精神。典型的とは力の実現象のようなもの。力とは精神構造。(「典型的」は後に「点形的」に訂正)
人間の精神構造という意味ですか ?
人間ではありません。地球自体の。
この地球の意味ですか ?
ちがいます。真実の地球です。
真実の地球とはどういうものですか ?
力の超進点(「超進点」は後に「超心点」に訂正)。
超進展(点)とは ?
力が持つそのもの。
精神とは何ですか ?
交差するものに与えられる位置。
交差するとは何と何が交差するのか ?
感性とシケイ。
人間とは何ですか ?
二つの性格を持つ軸。
二つの性格とは ?
感性とシケイ。
対立するものなのか ?
地球の中においては対立する。
地球の外とは ?
真実の地球。真実の地球においては並格的なもの。
同一という意味ですか ?
同一ではない。
空間とは ?
位置のない変化層。
位置とは何ですか ?
停止するべき力の持つ言葉。
停止するべき力の持つ言葉とは何ですか ?
・・・・・・
時間とは何ですか ?
対角線における核と磁場の関係。
空間と時間の関係とは ?
時間と空間は同時に存在していない。時間は空間を越えている。
どうだろう? 君の頭の中でいきなりこんな対話が始まったらどうする? まったくチンプンカンプンだよね。最初は自分でも気が狂ったのではないかと感じた。でも、同時にOCOTがよこしてくる言葉の中に何か底知れぬ魅力を感じたんだよね。人間世界を超越した全く異世界の知性というか、ほんとに高次元の存在というのがいるのかもしれないって。
このやりとりを見たらすぐに分かると思うんだけど、最初の頃は会話らしい会話すらできなかった。ただ、ひたすら質問していくだけ。質疑が単調で一本調子になっているのは、文脈を持たせながらの質問にはOCOTが全く応答しなかったからなんだ。たとえば、「精神とは何ですか ?」という質問に「交差するものに与えられる位置」と答えてるよね。当然、僕としてはそこで「交差するとは何と何が交差するのか ?」って尋ねる。そこでOCOTは「感性とシケイ」と答える。で、実際は、そこで引き続き「感性と思形とは何ですか」という質問を投げかけたんだ。でも、OCOTは黙ったままだった。こんな具合で、質問しても一つの質問と別の質問の間に何一つ文脈が作れないんだよね。ただ、単文のようなものを集めていくだけ。最初の頃はずっとそんな感じのやりとりが続いたんだ。
これは本にも書いたんだけど、つまり、OCOTは僕にまずはジグソーパズルのピースを一つづつ作っていくように仕向けたんだろうと思ってる。最初からつながったピースは決して与えない。そういう意図をほんと強く感じた。こうして、いろいろなことをバラバラに質問しながら、まずはパズルのピース集めが始まったというわけなんだよね。それからというもの、もうOCOT中毒になっていったね。許される限り、延々と質問を投げかけていった。その記録が「シリウスファイル」なんだ。
もし、教師の鑑というものがあるとするなら、OCOTほど素晴らしい教師はいないかもしれないね。なぜなら、彼は決して「答えを回答としては教えない」から。彼は「答えを問いとして教える」。変な言い方になってしまうけど、その意味でヌーソロジーの中では宇宙とは何かという問いに対する答えはもう分かってると言ってもいい。実際、物質と精神の関係、自己と他者との関係、人間と神との関係等のあらかたはもう構造としては見えている。でも、それが分かったところで、何が変わるわけでもない。つまり、そういう知識に意味はないわけ。「だから何 ?」で終わり。問題はそうした回答から、なぜ、そう言えるのか、という問いに思考の方向を反転させていくことにあるんだ。こうした思考の転換方法は哲学の言葉で「超越論的」と言われているんだけど、その意味でいうなら、ヌーソロジーは宇宙全体に対する超越論的思考を展開していく思考と言っていいんじゃないかなと思ってる。もっと分りやすい言い方をするなら、僕らが経験している物質的自然や人間の存在は回答なんだよね。問題はこうした形で物質的自然と人間が存在できるようにしたその条件を考えろ、ってこと。たとえて言うなら、1+1= ? という計算をするんじゃなくて、1+?= 2、この方程式を解けって感じかな。これがOCOT情報のユニークなところだね。答えを教えるのではなく、まずは正しい問いだてができるように誘導する。そして、実際、そこがヌーソロジーの思考のスタート地点になってる。普通のチャネリング情報との質の違いもそこにあると僕なんかは感じてる。ということで、今日はこのへんで。