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第3回 異次元の純粋思考—シリウスファイルへの取り組み

TEXT BY KOHSEN HANDA
第3回 異次元の純粋思考—シリウスファイルへの取り組み

ヌーソロジーとはOCOT情報そのものではなく、その精査によって構築化されてきたもの。

 さて、前回はヌーソロジーの出自となったOCOT情報について少し話したけど、今回はその解読作業を通じて僕が何を感じ取ってきたか、それについて幾つか大事なことを伝えておこうと思う。

 OCOTとのやりとりは1989年から1995年の春あたりまで約7年間、続いた。「そろそろ、オレたち終わりだな」とかいったような別れ話があったわけじゃないよ(笑)。ラジオで言うと、徐々に電波が届きにくくなっていったって感じかね。最終的には何も聞こえなくなった。1995年というと、ちょうどオムウ事件が起こった年だよね。講演会などをすると、二次会で「今でもOCOTとのコンタクトはあるんですか ?」とよく訊かれるんだけど、正直、1995年以来、頭の中にOCOTの声が聞こえてきたことは一度もない。スピ系の人の中には、「半田さんが闇に落ちたからよ」とか平気で言う人もいたが、「ワシは最初から闇が好きな人間だ。闇からしか光は見えんよ」と言っておいた(笑)。

 さて、前回も話したように、交信初期はとにかく質問するのがやっとで、OCOT情報がどのような輪郭を持ったものであるかは全く見えなかったんだけど、シリウスファイルにある程度の情報が溜まったところで、僕としては、何とかこの情報群を地球語に翻訳したくなった。それからというもの、この謎の怪文書との格闘が始まった。これはほんと大変な作業だったね。ほとんど強迫観念に駆られてやり続けたって感じかなぁ。

 質問の内容はミクロ世界やマクロ世界に関する物理学に始まって、神話、宗教、神秘主義、生物学、人間の肉体等、多岐にわたっていった。返ってくる応答は常に抽象的なシリウス言語ばかり。最初のうちは取りつく島もなかったんだけど、カバラやヘルメス学など神秘学関係の本を読んでいくうちに、OCOT情報が古代の霊的な知識体系と深い関連を持っていることが徐々に見えてきたんだ。それからは、しばらく、オカルト関連の本をチェックしていったね。オカルト関連と言っても裾野は広くて、ブラバッキーの神智学やシュタイナーの人智学、さらにはゴールデンドーン系の魔術体系とか、グルジェフやウスペンスキーの宇宙思想もある。まぁ、かなり混沌とした世界なんだけど、僕自身は当時はユダヤ教の神秘主義であるカバラが一番OCOT情報に似ている気がした。それからようやくOCOT情報の輪郭が見え出したって感じだったね。ヌースレクチャーなんかでも紹介しているイサク・ルーリアの思想なんかもその頃、初めて知ったものだよ。

ファイル解読を続けてきて感じたこと

・ヌース用語は安易に使用しないこと

 ヌーソロジーに触れ始めるとすぐに分かるけど、ヌーソロジーにはOCOT情報由来の耳慣れない言葉がたくさん出てくる。一応、これらの言葉を「シリウス言語」と呼んでいるのだけど、本来なら、こうした特殊なタームは使いたくないというのが僕の本音だよ。しかし、使わないとどうしても全体の論旨の均整が取れないという用語もある。よく使用する「定質と性質」とか「思形と感性」なんかがまさにそう。それにシリウス言語は極めて観念的で硬いでしょ。こういう硬さは本来の僕のセンスではない(笑)。一時期、シリウス言語を別の言葉で置き換えて、もっとハイセンスな思想イメージはできないものかとあれこれ考えてみたんだけど、結果、すべて撃沈。それで、致し方なく使用している(ヌーソロジーの方に転用したシリウス言語は「ヌース用語」と呼んでいます)。

 本音を言うと、こうした特殊な用語というのは、カルトっぽく聞こえるので嫌なんだよね。だから、僕も最初は一言も口にしなかった。僕の場合、ヌース用語を他の人に対して使用し始めたのは、OCOTとのコンタクトから4年ほど経った1992年ぐらいからだったかな。交信内容の解読が進むにつれ、どうしてもその内容を他人に伝えたくなり、いたしかたなく、半端な理解のまま、東京で最初のレクチャーを始めたんだ。ネタ元がチャリング情報であることは伏せてね。最初の露出は意識物理学のような切り口だったから、今、振り返ると、D・ポームとかF・カプラとか、ニューサイエンスの話が中心だった。当時はまだ「ヌース理論」と呼んでいたんだけど。

 で、ヌーソロジーをこれから学ぶ人もヌーソロジーを知ったからと言って、決してヌーソロジーを知らない人にヌース用語を多用してヌースの話をしないようにして欲しいんだよね。最初、ヌースの思考を知ったときには新鮮で面白いから、ついつい、ヌース用語を使いたくなるんだけど、人に説明するときはだいたい決まって逆効果。むちゃ怪しまれるし、話している本人自体がわけがわからなくなっちゃう(笑)。それは、使う方がまだ概念がこなれてないからなんだけど。これは僕の経験から言えること。

ヌースの思考の基本は形(かた)をマスターすること

 思考法にはいろいろなスタイルがあるんだよね。物理学のように数学を使ってその構造を抽象的、幾何学的に思考する方法もあるし、神話のイメージや詩的言語を使って象徴的に世界を捉えていく思考もある。また、人間の感情の機微を繊細にとらえるような情動的思考というのもある。ヌーソロジーはもちろんこれらのすべてと関わっていくんだけど、最も重要視するのは幾何学的思考なんだよね。言ってみれば形の思考。一般に形の思考ってのは、図式的にみられがちで文学や哲学系の人たちは好まない。でも、ヌーソロジーが目指すイデアの思考というのは、言語による思考よりも幾何学が持った形の思考を最重要視する。これは、ある意味では日本的でもあるよね。

 茶道や能、歌舞伎など、日本の伝統芸能はとにかく「形(かた)」を重用視するでしょ。師匠から弟子へと一つの芸が伝承されるとき、弟子は何度も師匠の形をまね、その形が無意識にしみ込むまで、黙々と稽古を続ける。といって、この稽古は単に形の持つ形式美を習得することが第一の目的ではなく、その「形」に含まれる精神を学ぶことに真の意義があるわけ。

 長年、ヌースの作業を続けてきて、ヌースもつくづくこの「形(かた)」だなって思うんだ。いずれ出てくるけど、ヌーソロジーは「観察子」という幾何学的概念を中心に構成されています。観察子とは簡単に説明しておくと、人間の霊魂の構造を高次の空間認識の組織化を通じてつかみ取るような概念なんだよね。この観察子のカタチを正確に抉り出すために、僕自身何度も、それをスケッチしては消し、修正に修正を重ね、改良を加えてきた。頭の中で空間に円や線を描いた回数はおそらく冗談抜きでギネスものだと思う。つまり、それくらい「形(かた)」の稽古を積んだってわけ(笑)。

 ヌーソロジーの思考はそうやって、空間にいろいろな形の観念の構築物を作り、その後、それらの構築物が実際の自分の意識感覚として何に対応しているように感じられるかということの吟味に入っていくんだよね。現在、ヌーソロジーで紹介している次元観察子の描像はそういう経緯から生まれてきたものなんだ。

 芸事でも、稽古を始めて十年目と十五年目では、同じ形でもそこから感取できる情動が変化するよね。また、人によっては同じ形から違う情動をくみ取ることもあるかもしれない。その意味で観察子の意味づけというのは数学の定理や定義のように四角四面にきっちりと一様に決まるものじゃない。しかし、それでも最低限の共通感覚というのは存在している。ヌーソロジーの観察子の理解がまだ多くの人たちと共有されているわけじゃないので偉そうなことは言えないのだけど、少なくとも観察子のΨ7〜Ψ8当たりまでは、ベテランヌーシストたちとイメージが一致しているようだから、これは、決して僕のひとりよがりの妄想ではないと思うよ。ヌーソロジーはこうした空間の「形」のイメージ作りから始まるんだよね。

ヌーソロジーは感覚を優先させない

 今話した内容に関連することでもあるんだけど、例えば、ヌーソロジーは物体の外部の空間と内部の空間を同じところに見る。つまり、内部とは外部、外部とは内部といったようなメビウス的な空間認識を作っていくわけだね。だけど、これは禅の公案のように「外即内、内即外」とか言ってパラドックスとしてボケるわけじゃない。こうした物言いは何か重要なことを言ってそうにみえても、実は何も言ってない(笑)。ヌーソロジーは仏教のようにボケをかまさずに、逆に徹底的にツッコミを入れる。外部や内部といった空間概念の意味合いについて深く理解し、実際に内部も外部も存在していないような認識へ意識の調整を図っていくんだね。この「内=外」の捩じれのトポロジーの最初の感得はψ3(プサイさん)という観察子の顕在化に相当している。最初の反転認識だね。

 では、果たして、「内部=外部、外部=内部」という空間概念を通常の空間認識から派生する感覚で把握することができるのかというと——絶対、無理(笑)。人間が感覚と呼んでいるものは、この自然に生まれてきた人間が持った受動的な力能であり、逆にそれが人間のあり方を規定しているような代物なんだよね。だから、既成の感覚に従っている限り、内部を外部に感じたり、外部を内部に感じたりすることはできない。だから、ヌーソロジーの思考はその自然に抗って、全く別の感覚図式、能動的な力能としての感覚能力を構築しようとしているということなんだね。だから、それは感じるものではなくて、自らが能動的に作り上げていくものでないといけない。そのためには新しい概念を思考によって構築していくことが必要なんだ。

 ここはヌーシストがしっかり押さえておかなくてはいけないところ。くどいようだけど、霊的思想における思考の重要性をわかってもらうために、ヌースレクチャー2013の第一回目のときに話した内容をここで少し引用しておくね。

「思考すること」の大事さについて、今一度、触れておかなくてはなりません。今、スピリチュアル系の世界では、 必ずと言っていいほど、「考えるな、感じろ」って言いますよね?――つまり、悟性や理性より感性を重んじろ、と口うるさく言ってくる。その気持ちはよく分かります。確かに、 現代人というのは、あまりにも知識や情報が先行してしまって、体感の重要性を失いかけている。だから、身体が持っている感受性を取り戻すことはとても重要なことだとは思います。でも、人間が持った感性というのはあくまでも受動的なものだから、いくら感性 に立ち戻ったところで、能動者として、存在そのものの中に入ることはできません。意外に聞こえるかもしれませんが、人間の歴史で思考が先手をとったことなど一度もないんですよ。つねに感じることが先にあった。さっきも言いましたよね。人間の知性は与えられたものについての思考を運命づけられている。人間は感性で世界を感じ取り、そこで不快や不満を感じるからこそ、不快を快に変え、不足を満足へと変えようと思考を巡らす。そして行動し、環境に働きかけていく。それが文明というものでもある。だから、文明の 進歩においては、思考は常に感性の従僕であり続けているということなんです。分かりやすくいうと、いくら感じても、人間は決して満たされない存在だということです。受け取る存在から、与える存在へと転進をはからない限り、この文明の方向は決して変わりませ ん。そのためには感性を超えた思考を作り出す必要があるのです。

 感性を超えたところに展開していく知性というものがあるんです。感性を超えているわけですから、この知性は純粋思考によってしか獲得できません。ここでいう“純粋”というのは「感性の影響を全く受けていない」「感覚世界をベースにしていない」といったような意味です。哲学的に言うなら、脱-表象化の思考です。ですから、この思考は受動的なものではありません。能動的なものです。だから、「考えるより感じろ」さえも乗り越えて、 わたしたちは「感じるより、それを超えて考えろ」へという段階に進まなくてはならない、ということなのです。この「考えろ」というのは、感性に従属して働いていた今までの悟性や理性が作り出していたような思考ではなく、人間にはまだ未経験の能動知性における思考です。それが「noos = ヌース」の本来的な意味だと思って下さい。ヌースはまだ人間の歴史には一度も現れたことがないんです。この新しく生まれてくる、能動思考態の重要性を、OCOTは次のように表現していましたね。『人神』に書きました。

「思考によって認識を変え、認識を変えることによって今度は感覚を変える。そして、感覚の変化はあなたがたの感情さえも凌駕し、人間の意識全体を全く別のものへと変容させていくのです。意識進化とはそういうものです。」————『2013:人類が神を見る日』P.161  

今日はこのへんで。

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