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第8回オカルティズムの神からの離脱――創造的知性の誕生

TEXT BY KOHSEN HANDA
第8回オカルティズムの神からの離脱――創造的知性の誕生

神秘主義から現代思想へ

 「物質は実際に霊なのですが、破壊された霊なのです」————シュタイナーの思想は数ある神秘思想の系譜の中でもダントツに優れていると思っているのだけど、この表現も的確だと思う。物質という概念で世界を見たときには、すでに霊は破壊されている————その通り。世界というのは、本当は内在にしか存在していないんだよね。それを外在と見てしまったときに実は物質というものが出現してきている。失楽園じゃないけど、僕らは実体の世界から追い出されてしまって、歪んだ形で世界を見てしまっているわけだ。ほんとうは自然を自身の内なるものとして認識しなくちゃいけない。それによって錯視状態は正常に戻り、シュタイナーがいうように、物質が霊に見えてくる、ということなんだろうと思う。

 

 それじゃあ、具体的に、どうやってそんな認識を作ればいいのか? シュタイナーがああ言ってる、こう言ってるって、いくら引用したところで、そう簡単に物質を霊化できるわけでもない。彼の時代から100年近く経った今だって、霊性は少しも常識になってないし、むしろ、世の中の趨勢は物質的な価値観一辺倒でまっしぐらに進んでいる。

 ここで敢えて「2013」を意識するなら、時代がまだ早すぎたんだと思う。まだ時期が来てなかった。だから、シュタイナーが霊視や霊聴を通して垣間見た「宇宙のほんとう」について語るにしても、シュタイナーは古代の叡智を引っ張り出してきて語るしか方法がなかった。つまり、ビジョンが見えてもそれをうまく現代的に表現する言葉がなかったんだね。実際、古今東西の神秘思想や宗教の歴史の中では人間が持った真理への欲求が様々な文化の中でたくさんの図像やシンボルによって記号化され、あーでもない、こーでもないと表現され続けてきた。今だってまだ伝統的な秘教に魅了された人たちの研究テキストが世界中で数え切れないくらい出版されているよね。もちろん、それはそれで悪いことじゃないのだけど、やっぱり、そのほとんどが古代や超古代に取り憑かれている。

 

 じゃあ、ヌーソロジーはどうなのよ?ということになるのだけど、ある面では同じ穴のムジナだろうと思う。OCOT体験という異常な体験はあったものの、結局、伝えられてくる言葉のあまりの分からなさに、秘教的な伝統にかなりの部分助けを求めた経緯もある。前回のDNAの話のところでも分かると思うけど、OCOTが伝えてきた知識はあまりにも異質すぎるんだよね。原液ではとても飲めたものじゃない。だから、僕としては何とか既存の知識の中で近い臭いを発しているものを探し出してきて、それを通して伝達していくしか方法がなかったわけ。これは当然の成り行き。それでも、僕の中では解読がオカルティズムや宗教的なフィルターを通ることに若干の違和感をずっと感じていた。何かが違うんだよね。うまく言えないけど、せっかく垂直的な未来に向けられようとしている意識のベクトルが、どうしても過去に引き戻されて、堂々巡りしている感覚とでも言うのか、何かがズレている。そんな感じなの。綿々と言い伝えられてきた霊知は確かに正しいことを語っているんだろうけど、表現としてそれを丸々借りてしまったら、何か不純なものが入り込んできてしまう。そう感じたんだ。だから、90年代はカバラとか錬金術とかミトラ教とか、そういう話をおかずに織り交ぜながらヌーソロジーの解説をやっていたんだけど、ゼロ年代に入って神秘思想系の話は極力、避けるようにし、哲学や現代思想の方に移行していった。これは、2001年にドゥルーズに出会ったせいだね。2014年に行ったヌースのレクチャーでも二度にわたってドゥルーズを取り上げたから、知ってる人も多いと思うけど。

 ドゥルーズというのは20世紀のフランスの哲学者。友人でもある詩人の河村さんに「半田さんはドゥルーズを読むといいよ」と言われ、ある日、本屋に探しに行ったんだ。ちょうど、ニューヨークの同時多発テロ事件の後でヘコんでいた頃だった。どの本も難しそうで何を最初に買うべきか迷っていたんだけど、『アンチ・オイディプス』(ガタリとの共著)という本を開いて、これなら何とか読めそうだとパラパラとページをめくっていたら、たまたま自分がそのとき考えていたことと同じようなことが書かれている箇所があった。こりゃ、すごいや、と思って読み進めていると、意識が本の中に吸い込まれるような感覚が起こって、突然、頭の中にスクリーンのようなものが現れたんだ。そして、そこに円が幾つか重なったようなカタチがカシーン、カシーン、カシーンって、まるでマジンガーZみたいに組み立てられていった(笑)。何が現れたと思う? 実は、それが前々回に紹介した「ケイプコンパス」だったんだよね。「ケイブコンパス」というのは実はドゥルーズの『アンチ・オイディプス』からの贈り物なんだよね。ビックリでしょ。僕は、そのとき直感したよ。ドゥルーズ哲学はヌースだ!!って(笑)。興奮して、すぐさまレジに向かったっけ。

   でも、この『アンチ・オイディプス』、衝動的に購入したのはいいものの、最初はほとんどの部分がチンプンカンプンだった(あとで知ったことだけど、この本、専門家が読んでもチンプンカンプンらしい:^^)。ただ、「シリウス革命」を書くときに著名な哲学者の本は何冊か読んでいたので、作品自体の大まかな思考線は見えた。というか、シリウスファイルの解読作業で抽象的思考が鍛え上げられていたせいか、行間が読めるんだよね。かなりスラスラと。この本は主に人間の無意識の歴史的発達について書かれてあるんだけど、行間から臭ってくるその構造がOCOT情報と瓜二つのように感じて、一気に引きこまれていったって感じかなぁ。ほんと、歓喜して喜んだよ。シリウス言語を地球語に表現する方法が見つかったぞ!!って。それに、哲学や思想というかたちで表現すれば、社会との接点を持ちやすくなるよね。神秘主義じゃ一般の人は引くからね。でも、この、まぁ、現代思想的な方向に向かったせいで、難解なヌーソロジーを難解なドゥルーズ哲学によって説明するという暗い穴倉の中に入っていったんだね(笑)。そのときのヌーソロジーのスタイルはこんな感じ。

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 ドゥルーズ=ガタリの最初の共著のタイトルにもなっている『アンチ・オイディプス』。この著作のテーマを一言で言い表すとすれば、主体性批判、自己同一性批判ということになると思います。主体性や自己同一性は一体どこからやってきたのか――そこでドゥルーズ=ガタリは、人間にとって未だに未開の地平である無意識野を問題とするわけです。神話、宗教、科学………歴史上のいかなる場所にもこの無意識の圧政が暗躍し、人間をオイディプスコンプレックスに落とし入れている。亡き父の亡霊による抑圧。もちろん、ここでいう「父」とは単に家族的な意味での父だけを意味するのではなく、その本質はユダヤ教が父と呼んだもの、つまり、神にあります。主体概念や自己同一性の背後にはそれらを機能させている神なる権力が存在する。ドウルーズ=ガタリはこの「神」的抑圧を受けたすべての人間的な営為をオイディプスとして告発するのです。その意味では彼らは徹底した無神論者であり、ラジカルな歴史的唯物論者でもあります。



 『シリウス革命』で個体の自我、家族の自我、郷土の自我、国家の自我、民族の自我という自我の連結をエゴのグラーデーションというように形容しましたが、ドゥルーズ=ガタリは人間をつねに狭隘で、不誠実で、野蛮なものにしているこの頑な主体概念に対して、その成り立ちと機能を精神分析や哲学はもとより、文学や芸術に関する広範な知識と透徹した視座を背景にして、痛烈な批判を試みています。彼らの文脈から察するに、宗教主義、科学主義、貨幣主義、国家主義、家族主義などおおよそ人類が築き上げてきた文明装置、社会装置のほとんどがオイディプスということになります。――すべてのオイディプスから軽やかに逃走せよ!――ドゥルーズ=ガタリはそう呼びかけます。でも、一体どこに逃走すればいいのか。残念ながら、それは具体的には示されてはいません。「ヌースアスデメイア/ヌース理論とドゥルーズ哲学」
2002年4月12日 0:56

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いきなり、大学の教科書みたいになってるよね(笑)。まぁ、だけど、間違ったことは書いてない。ドゥルーズ哲学の主題はここにも書いている「同一性批判」というやつにある。スピ系の言葉に翻訳すれば言えば「自我を越えろ」ってこと。で、ちょうど、この頃、3冊目の『光の箱舟』という本を砂子さんと一緒に書いたんだよね。砂子さんはゲージ理論、特に対称性とトポロジーが専門の大学の先生で、ヌーソロジーにとても興味を持ってくれて、一緒に本を書こうということになった。ドゥルーズ哲学にプラスしてこれまた一般の人には難解極まりないとも言えるゲージ理論。もうここまで来るとフルメタルジャケットというか、あまりに重装備で誰も近づけなくなる。誰が見ても、何じゃ、こりゃ?ということになって、ゼロ年代初頭のヌーソロジーはますますマニアック度を上げていく。

 今でもよく覚えているけど、この頃、従来のヌースファン(オカルトファン?)の何人からか、散々な言われ方をしたよ。「ヌーソロジーは間違った方向に行っている」「インパクトがなくなった」「あの生き生きしていた半田さんは一体どこにいったの?」「ヌースは終わったね」等。「別にアンタたちのためにやってんじゃねぇ〜よ」と喉元まで出かかったけど、そこは波乱万丈、疾風怒濤の半生を送ってきた半田くん、ニコっと笑って、「いやいや、学問的な厚みもつけないとね」と一言。しかし、心の中では「おまえら人のことばかりブツブツ不平不満たらしやがって。自分で少しでも考えたことがあんのか!!」と喚き散らしていたけどね(笑)。

 それからというもの、ゼロ年代はドゥルーズの本を一心に読み耽り、そこからフロイトやラカンといった精神分析の考え方を知り、さらにはベルクソンやライプニッツ、スピノザといったドゥルーズに影響を与えた哲学者たちの思想を神秘主義のフィルターを通して読解する、という流れになっていく。この時期の作業は今のヌーソロジーにとって、とてもプラスになっているのではないかと思ってる。人間の思考の盲点とでもいうのかな、現在の人間の思考形態に何が欠落しているのかが、いろいろな哲学書を読んでいくことによって徐々に分かっていったんだよね。そして、それが分かってくればくるほど、逆に、OCOT情報がいかに問題の本質を言い当てているかを実感し始めた。

 OCOT情報は従来の宗教や哲学のように倫理や道徳についてほとんど語らない。つまり、「汝の敵を愛せよ」とか「善いことを為せ」とか、人間の生き方について説教くさいことは何ひとつ言わない。もちろん、「すべてを許しなさい」「すべては愛です」などといったアメリカンなスピの傲慢さもない。もちろん、そこが自分自身でも惹かれたところでもあったんだけどね。『人神』を読んだ人は知ってると思うけど、OCOTという存在はとにかく、恐ろしいほどクールで、しかもあったかい。語りかけは、常に同じ友だち目線。人間を見下さない。それどころか敬意さえ払っている。このへんがユダヤの神の類型とは大違いなわけ。  OCOTが伝えたいことは極端に言えば、たった一つだけで、「とにかく空間認識を変えろ」ということ。人間の世界に起こっている不幸なり、不調和の原因はすべて人間の空間認識が歪んでいるから起こっているのであって、空間認識が是正されれば問題は自然に解決していくという、極めてオプティミスティックな考え方なんだよね。それによって、死さえ克服できると言ってる。ほんまかいな?という感じだよね。そして、この空間認識の変更は、以前も少し話したように、反転の思考の力によって達成が可能だという。

人間型ゲシュタルトと変換人型ゲシュタルト

さあ、やっとヌーソロジーの核心の部分に入ってきた感じだね。これから話すことはこのメルマガ連載の中でも一番大事なところだと思うから、耳の穴をかっぽじって、よ〜く聞いてね。

 空間認識を変えると言ってもたぶんピンと来ない人が多いかもしれない。というのも、僕らはあまりに「空間は3次元である」ということを自明に思っていて、科学者はもちろんのこと、宗教家や哲学者だってそのことを表立って問題視する人は少ない。空間認識と人間の心の在り方がそんなに深く関係しているなんて誰も思っていないし、空間は人間が世界に登場してくる前から外の世界としてあるものであって、心はあくまでも人間の意識の中にあるもの、そういう捉え方をしている人たちがほとんどた。だから、善悪などといった心の問題は人間の内側で解決されるべき問題であると考えて、倫理や道徳をめぐって、今でも多くの人が延々と議論を続けている。

 ヌーソロジーの考え方は全く違うんだよね。もちろん、議論していくことは大切なんだけど、そんなことをいくら続けたとしても、人間の心の問題は決して解決しないのではないか、と考える。というのも、僕たちが自我と呼んでいるものは実は空間や物質の概念と分かち難く結ばれていて、それらに対する認識の在り方自体を変えない限り、人間は嫉妬、怨恨、憎悪、悲嘆といった自我に去来する心の苦しみから解放されることはないだろうと推測しているから。

で、ヌーソロジーでは、時間、空間、物質をも含めて、人間を人間たらしめているこうした力のことを「人間型ゲシュタルト」と呼んでる。ゲシュタルトってのはもともとは心理学用語。「全体をある一つのまとまりのある構造として見る力」のような意味だけど、ここでは人間を人間たらしめている全体力のような意味で使ってる。分かりやすく一言でいうなら、ヌーソロジーでは人間の自我(つまり「わたし」)と時間、空間、物質はすべて同じ力によって支えられていると睨んでるわけ。だから、スピ系の人たちがよく言う、自我を超えて人間が宇宙と調和的に生きるようになるためには、自我を成り立たせている構造、さらには、時間、空間、物質という概念を人間の意識に成り立たせている構造をすべて見極め、最終的にはそれらをすべて解体していく必要があると考えるんだ。だけど、そんなことになったら、それこそゲシュタルト崩壊が起こって、人間は気が狂ってしまうしかない。そこで、人間型に変わる別種のゲシュタルトを作る必要がある。それが「変換人型ゲシュタルト」というやつなんだね。もはや人間ではない意識形態。人間ではない意識形態なんてものがあるのかよ。超人? キリスト?ブッダ?おぉ、なんだか、すごい話になってきたぞ。

このへんの話は最初の本の『人神』にも書いているので、少し引用しておくね。「変換人型ゲシュタルト」に関する僕とOCOTの対話部分。

「では、実際にこの人間型ゲシュタルトからわたしたちの思考を解放していくための新しい思考様式とはどのようなものでしょうか。」

「そのためには、空間に潜在化している本当のカタチを見いださなければなりません。」

「空間に潜在化している本当のカタチ……というと、その思考様式というのは単に思弁的な哲学概念といったものではなく、具体的なカタチをもったものとして存在するということなのですか。」

「ええ、変換人にとっての幾何学の体系が存在しています。」

「それを見つけ出す空間認識が変換人型ゲシュタルトというものですね。」

「そうです。このゲシュタルトを作り出していくためには、まず〈見つめているもの〉と〈見つめられているもの〉との関係性に生まれているカタチを発見しなくてはなりません。わたしたちがいうカタチとは、見ているあなた自身と切り離されて存在し得るものではないのです。」

「カタチが僕と切り離されて存在しえない……というと?」

「ここに生まれるカタチを把握していくためのキーコンセプトとなるものは、あなたがたが空間と呼ぶものの中にあります。単に〈わたし〉と〈モノ〉が一体であると観念的に把握したとしても、そこにはいかなる構造も生み出されてはきません。あなたがたの哲学が力を持てなかったのも、この一体性に具体的な構造を与えることができなかったからです。〈わたし〉と〈モノ〉が作り出す関係性を空間の幾何学として抽出し、それらを客観的に観察する視座を獲得することが大切です。そうすることによってこの視座を持った新しい〈わたし〉は今まであなたがたが主体と呼んでいたものとは全く別のものとなっていきます。つまり、空間に満ち溢れている、あなたがたにはまだ見えていない実在のカタチをはっきりと知覚化することによって、あなたがたは従来の主体と客体という2元性から解放されていくのです。この作業によって生まれてくるゲシュタルトは物質ではなく、意識自体のゲシュタルトということになります。そのゲシュタルトの確立によって、あなたがたの思考対象は見ている対象物が存在する空間システムではなく、見えることを成立させているメタ空間のシステムへと変移していくわけです。」

『2013:人類が神を見る日』p.173

主客分離から主客一致の思考形態へ

さぁ、ここからはこの「変換人型ゲシュタルト」のアイデアがヌーソロジーの思考の中でどのように醸成されていったのか、その経緯について少し話しておこうね。

1997年に書いた『人類が神を見る日』では、人間型ゲシュタルトと変換人型ゲシュタルトの対比を次のような図で表している。

この図で示したかったことを一言でいうなら、今の人間の世界に対する認識の仕方が「観測者である主体自身を含んでいない」ということなんだよね。科学なんか特にそうだけど、観測者を特権的な地位に置いちゃうでしょ。137億年前にビッグバンが起こったとか、46億年前に地球が誕生したとか、あたかも、そのとき、そこで自分が世界を観測できるかのように無反省に語ってしまってる。科学的世界観の文脈から言うなら、そこにはまだアメーバのような原始生物だって生まれちゃいない。そんな状態で一体誰が世界を観察しているというのだろう?観察する意識も生まれてもいないのに、科学者たちは平然とこういった推論を立てて世界を客観的に描像し、さもそれが真実であるかのように宇宙の歴史を語っている。要は、科学的思考ってのは、世界をつねに客観的な視線のもとに一望できるとする奇妙な幻想に取り憑かれているわけだね。さっき言った、時間、空間、物質、自我が一体となった強力な霊力がここには働いている。この霊力は、徹底して、世界を対象化(表象化)したがる意識と言ってもいいよね。この対象化の眼差しが人間型ゲシュタルトの核として働いている。

 一方、ヌーソロジーが今から作っていこうとしている変換人型ゲシュタルトの方は全く違う。この図では、変換人型ゲシュタルトの在り方を主体と客体を相互に結ぶ矢印で表現しているよね。この双方向の矢印は主体と客体が分離していない意識状態、つまり、主客一致の空間認識の在り方というもの指し示している。主体と客体が分かれていないわけだから、そこには少なくとも物質や物体という“対象”は存在しちゃいないし、その対象を観測する特権的地位を持った観測者たる“わたし”なんてものも存在しちゃいない。つまり、変換人型ゲシュタルトが形成されてくると、この世界には誰もいなくなるってことでもある。無人の地球が出現してくるってこと。おいおい、それって一体どんな世界なんだ。ちっともイメージできないぞ、ってことになると思うけど、それはまだ僕らが変換人型ゲシュタルトを持てていないから………ということにしておこう(笑)。  「見るもの」と「見られるもの」の一致については、過去にもたくさんの覚者や神秘家たちが何度も言ってきたことでもあるのだけど、ほとんどの場合、そこで思考がストップしてるよね。いや、逆にそこで思考を停止させること自体を是としちゃう。天上天下唯我独尊。宇宙即我、我即宇宙。一切是空也————思考や感情を意識から解放して、すべてが放れた心境に安らぐこと。あるがまま今此処に安らぐこと云々……。それが悟りの境地。ほとんどそれで話が終わっちゃう。もちろん、今の時代、科学的世界観や物質的価値観で誰もががんじがらめになって、今にも窒息死しそうな状態だから、こうした伝統的な東洋的叡智に真理を見たくなる気持ちもよく分かる。でも、やっぱり、これって、だからどうした?っていう話だよね。人間がたとえ「すべては空だ」と居直ってみせたとしても、世界が存在することを止めるわけじゃないし、自分の意識が根底的な変化を見せてくるわけでもない。それで人間が変化できるのなら、今の世界がこんな状態になるわけがないよね。問題はそこから先じゃないのかなって思う。すべては自分。それはわかった。じゃあ、そこからこの新しい自分は何を感じて、何を思考して、何を行為すればいいのか? その領域へと足を踏み入れていかないとダメだと思うんだよね。ヌーソロジーの思考からすれば、仏教なんかが伝えるこうした諦念的心像は意識のタブラ・ラサ、つまり意識の白紙状態のようなものであって、決して好ましい状態とは思えない。もちろん、悪いものとして批判するものでもないけどね。白紙状態というのは言ってみればニュートラル状態のようなもの。これは宇宙的受動と能動の中点の状態といった感じかな。問題はそこから、世界を空へと還元したのなら、そこから何をどう思考して生きるのか、そこだよね。

東洋的ボケと西洋的ツッコミの違い

じゃあ、このへんの問題を西洋はどう考えたのか。西洋と言っても、ここで話そうと思っているのはユダヤの神秘主義のカバラの思想なんだけど。カバラというのはユダヤ教から派生したものだけど、実はユダヤ教とは真反対の精神性を内包しているようなところが多々ある。要は、極めてグノーシス的色彩が強いんだ。グノーシスというのは簡単に言うと人間は神に接することができるという考え方。極端な言い方をするなら、人間が神になることを目指す思想と言ってもいいかもしれない。でね、このカバラの教えの最初のところに「ベヒナ・ベット(Behina bet)」という言葉が出てくる。これはヘブライ語で「二番目の識別」という意味なんだけど、これが仏教とはまた全く違った諦念のスタイルでね、ここに東洋の宇宙的ボケに対する西洋の宇宙的ツッコミというコントラストがよく現れている。どういう内容か少し説明してみようね。

 僕らは普段、何気に世界を経験しているよね。生まれて物心がついてきたときには、もう周りに山や川や海や空や太陽があって、そこには豊かな自然が最初から用意されていた。それは、あまりに当たり前のことで、それがそうやってそのようにあることに対して誰も特別の関心を払ったりはしない。カバラでは、まず、自分の前に与えられたこの自然世界を無条件に受け取るのではなく、「そこには与えるものが存在している」と感じる取ることが重要だと説くのね。もちろん、この「与えるもの」というのはカバリストたちが神、つまり創造主と呼んでいるもののことを言っているわけだけど、面白いのは、この創造主の存在を感じ取ることによって、そこから、「与えることの喜び」を感じ取ることができてくると説くところなの。ここはカバラのグノーシス的な側面を強く感じるところでもあるんだけど、「受け取ることの喜び」じゃないところがミソだよね。父権的なユダヤ教のタルムードの教えだったら、与えてくれた神への感謝がまず真っ先にくるんだろうけど、カバラはそうじゃない。神となって与えること側への喜びをまずは感じ取れというわけだ。これが「第二の識別」と呼ばれているものなの。

 では、なぜ、カバラはこんなことを言うのか————それはね、その喜びを感じ取ることができるようになれば、その喜び自体を欲しくなるから、という理由なんだよね。つまり、与える者側のことを感じ取れれば、「一方的に世界を受け取っている側の状態」、つまり、これは人間のことだけど、そこに欠如を感じてくるようになるというわけ。カバラにおいては、人間という存在は光を受け取る容器のような存在としてあるんだけど、与えている側のものを感じ取ることによって、その光が自分に欠如しているものを感じ始めるというんだね。そして、今度はその欠如しているものを獲得したいと思い始め、この容器はほんとうはもうこれ以上受け取りたくないのだ、ということに気づく。本当は与えたいのだけど、まだ受け取ることしかできないので、受け取りたくないという形でしかその与えたいとする欲望を表現することができないわけだね。受け取ることから与えることへ。与えたいという願望。こうして、受け取ることを与えてくれていた光に対する拒絶が始まり、受け取る容器は光を与えることへと翻ることを渇望し始める。すごいよね、このへんのイメージ。そして、カバリストたちはこの返す光の所作を慈悲の光(オア・ハサディム/Ohr Hassadims)と呼んでいるのね。そして、この光はそこから、今度は受け取りを授与の形にする方法を発見していこうとする————。

 どうだろう。僕なんか、このへんは今の時代に生きている人間の精神的葛藤にピッタリくる表現になっている感じがする。資本主義がここまで進んできて、僕らの日常は物で溢れかえっている。もう、物は要らないと思っても、経済社会は物の生産で動いているものだから、これでもかというように次から次へと新しい商品を繰り出してくる。受け取ることを拒否したいのは山々なのだけど、肉体としての生がそれを許さない。致し方なく、生活のために来る日も来る日も働く。そして、物の生産へと加担し、その結果、より一層、世界は物で溢れかえっていく。こういう循環だと、もう肉を持って生きていることに喜びよりも苦痛を感じることの方が多くなる。そして、結局は、多くの人たちが、このような社会で人間として生きることに一体、どのような意味があるのか————と、受け取ることを今まで与えてくれていた光を拒絶したくなってくる、というわけ。

 OCOT情報はこうした現在の人間の意識状況を指して「人間の意識が変化を望んでいる」という言い方をしていた。今、スピリチュアルの世界でアセンションとか覚醒とか言って騒ぐ人たちがたくさん現れてきているのも、これを単に社会からの逃避と解釈するのではなく、今までの人間ではない何か別のものへと変化したい、という人間自身の根底的な衝動が抑え切れなくなってきているからとも言える。既成の科学的常識にドップリ浸かっている人たちは、進化に対しても相も変わらず物質的なイメージしか持てず、ポスト・ヒューマンは人工知能を持ったシリコン生命体だ、なんて言ったりもするけど、おそらく、そうではないね。人間の意識進化というものがあるとすれば、それはカバラが説くように、受け取る者から与える者への転身、つまりは受動的なものから能動的なものへの反転じゃなかろうか。  ここで思い出して欲しい。ヌーソロジーとは「能動的思考の論理」という意味だ、と最初に紹介したよね。人間が世界を表象として受け取って、そこから立ち上げる思考を受動的思考と呼ぶなら、人間が表象の世界を離れ、主客一体の世界の中で世界を立ち上げていく思考は能動的思考と呼んでいいものになる。主客一体がゴールではなく、新しい始まりとなるような世界。それが創造空間の世界だと考えるといいよ。つまり、ヌーソロジーが提唱していく変換人型ゲシュタルトとは、カバラ的にいうなら、与えることに喜びを見出していく創造的知性を持った者たちにおけるゲシュタルトということになるわけだ。

変換人型ゲシュタルトを生み出すための下準備

さあ、じゃあ、自己が主客一体を覚知したのなら、そこから一体どういうゲシュタルトを立ち上げようというのか、そこに三次元認識に変わる別のゲシュタルトを確立させるなんてことがほんとうに可能なのか————ここが問題だよね。

 人間型ゲシュタルトの元凶がどこにあったかというと、自分自身を物質的肉体だと考えているということ。ここに尽きる。しかし、よくよく考えてみると、こうした感覚は実は人間がオギャーと生まれてきたあとに徐々に固まってきたものであって、生まれた当の最初から、そういう認識があったわけじゃない。

 わかりやすい例を挙げると、たとえば、目について考えてみるといいよ。自分の目は自分じゃ見ることができないよね。原理的に不可能。でも、僕らは普通、自分が目をつけた頭部を持つ一つの肉の塊だと信じて疑わない。自分じゃ、自分の肉体の全体性なんて絶対見えはしないよ。にも、かかわらず、そう考えてしまう。これはなぜだろうね。実は、このへんのことはラカン派の精神分析ではすでに説明されていて、「人間は他者の眼差しによって主体の統一像を獲得する」って言われている(ラカンの鏡像段階論)。つまり、人間は他者の視野に映った自分の像を想像的に取り込んで自己像を作り上げていくということ。言ってみれば、人間は、最初は他者の眼差しを通して自我の位置を目覚めさせるってことだね(ラカンの用語では「想像的同一化」と言います)。そして、次の段階ではその眼差しに自分の眼差しをも重ね合わせ、自分自身が外に出て自分を見るようになる(同じく「象徴的同一化」と言います)。  こうやって生まれてきた自己イメージを図で表すとこうなる(下図1参照)。分かるよね。3次元空間の中に肉体を持った自分がいる————これは、今の人間が普通に感じている感覚だけど、こうした感覚で世界を見てしまうと、図に示しているように、主体(見るもの)と客体(見られるもの)という関係で世界が二つに分離しちゃうのが分かる。つまり、人間型ゲシュタルトというのは、自己が自他の眼差しを一致させて世界を見るようになってしまったがゆえに生じてきたゲシュタルトってことなんだよね。この状態から変換人型ゲシュタルトに移行していくためには、ひとまず、こうした一つにまとめられてしまった眼差しの中から出ないといけない。そこから出て、自分自身の眼差しを再度、奪回すること。これが大事なんだよね。

で、自分自身の眼差しのもとでさっきの状況を見ると、こうなってる(下図2参照)。これも簡単だよね。実際に自分に見えているのは目の前のリンゴだということ。いや、「見えている」と表現するのも正しくないなし、「リンゴ」と名付けるのも避けた方がいいのかもしれない。名付けると自動的に物体になっちゃうからね。そこには自分の目はもちろんのこと、自分の身体の全体像や、その身体を取り囲んでいる空間なんてものはどこにも見えない。ただそこには一般に「リンゴ」と呼ばれているところの裸の知覚世界があるだけ………。

まぁ、当たり前のことを話しているんだけど、ここで再確認しておきたいことは、現在の僕たちは、まず3次元空間で取り囲まれた世界の方を絶対的な前提として考えているってこと。まずは自分の肉体や他の様々な対象が散在した世界が外側にあって、その中で、自分の主観世界の中に入ると、その世界の一部が図2のように見えますよ、って考えてる。科学的思考における知覚の説明なんかもすべてがこうした認知の図式をベースにしているよね。これがまずい、間違っている、と言っているわけ。最初にある世界はどう考えたって図2の方。そう考えないといけない。そこでは、対象を見ている「わたし」なんてものは存在していないよね。ただ、世界があるだけ。ただ、リンゴがある。いや、リンゴがあるという状態すら、人間型ゲシュタルトを通した後付けの表現と言っていいかもしれない。どうだろう? この無私の純粋な知覚状態を何となくでもいいから想像できるかな?はっきりとつかめなくても、何となくそういう世界があるのだろう、という感覚でもいいよ。その空間は君が幼児の頃にいた空間でもあるから、君の中にもきっとその空間の記憶を眠っているはずなんだよね。

 さて、この図1と図2の「リンゴ」の在り方の違いをハッキリと認識できるようになって、ようやく変換人型ゲシュタルトが息づく世界へと進んでいくことができるんだけど、ここから先が東洋的ボケでは語られることのなかったところだね。ヌーソロジーの世界では、このリンゴさえ幻想だ。それを見ている私さえも幻想だ。一切は空。だから、ノンデュアアリティー〜。なんてことにはならない。ここから、別のゲシュタルトを立ち上げていく。ここからさっき言った能動的思考(ヌース)のツッコミが開始され、その思考によって新しいゲシュタルトが構成されていく。さてさて、こんな状態から一体どういうゲシュタルトが可能になるというのか。

 ここで大事なところは、図1の意識状況と図2の意識状況における空間の質の違いを感覚に上げることなんだよね。図1の方は僕らが日頃慣れ親しんでいる外在世界、つまり時間と空間の世界のことなんだけど、図2の方は実は時間と空間の世界じゃない。そう思い切るところが大事なところ。さっき言ったよね、他者の眼差しを先行させたところに図1のような世界があるのであって、自分自身の眼差しが奪回された世界は、実はもう時間と空間からは解放されている。じゃあ、ここにある空間は何よ? ってことになる。  まず、指摘できるのは、二つの空間における「奥行き」のあり方の違い。図1の方では奥行きは3次元空間の単なる1方向でしかない。ここでは奥行き方向はリンゴと観測者の目玉をつなぐ単なるZ軸としての空間になっている。Z軸においてはリンゴも観測者の目玉もどちらも物体にすぎない。つまり、対象と対象を並列的に配置した状態になっている。このZ軸は自己が他者の位置に入り込んで見ている空間なわけだから当然のことなんだけどね。でも、図2の奥行きの方はそれとは全く違うものだよね。自己自身がリアルに経験している空間になっている。ここに出現している空間は単に物体と物体をつないでいる空間なんかではなくて、まさに「わたし」が世界とつながりを持つ場所になっていることが分かる。言い換えれば、ここで人間は生きていて、ここは「生きられる空間」(精神医学者ユージン・ミンコフスキーの表現)になっているわけ。この二つの空間の隔絶度合いが分かるかなぁ。つまり、「Z軸の空間の中にいざ観測者自身が入ると、そこには全く別の空間が開いてくるということ」。この認識をまずはじっくりと温めていって欲しいんだよね。Z軸の中に自分が入るか、入らないか。この両空間の差異が理解できてくれば、これから話していくことも自然に分かってくると思うよ。

幅支配から奥行き支配の空間へ————延長意識と持続意識

さぁ、今回は前回話した二種類の空間の質の違いについて話していこう。この質の違いを理解して、自分自身の中で起こっている意識感覚を双方の空間に注意深く振り分けていく。それによって、変換人型ゲシュタルトがどういうものなのかが徐々に感覚に上がってくるはず。

 前回紹介した図2で表された空間を思い出してほしい(下図2として再掲載)。ただ、ありのままに開かれた現象空間。実はヌーソロジーではこのときの空間がそのまま「精神」の在り処だと考える。つまり、実際に「見る」ということが起きている奥行きとそこに見える幅の空間自体が僕らの内在空間の有り様だということ。どう? びっくりだよね(笑)。普通、「精神」というと、科学だったら脳、宗教だったら霊魂というように、一方は物質、一方は正体不明の何らかの実体にあると考えるよね。ヌーソロジーの考え方は全く違うんだ。精神の在り処は“見えている世界”そのものとして出現しているこの奥行き空間の実相そのものにあると考える。

ここで「見えている世界」とわざわざ言っているのは、僕らが普通に考えている3次元空間というのが、実は見えている世界ではないということを前提にして言っている。これも、「えっ〜?」という感じだよね。でも筋は通ってる。というのも、今まで話してきた通り、3次元空間というのは他者ベースの空間であって、実際に自己側の知覚が起こっている空間ではないからね。3次元空間というのは、あくまで自己側が他者の知覚空間を想像し、そこに自分の見ている空間を同一化させて、一つの概念として創り出した空間といった方が正しい。幅と奥行きという対比で言うなら、自己にとっての奥行きと幅が、他者にとっての幅と奥行きという形で真逆に置き換えられている空間なんだね(下図3参照)。

 こうした空間概念の下では自己自身の奥行きは幅化した空間の下に完全に隠されてしまって、精神の働きも無意識の中に潜在化してしまうことになる。ヌーソロジーではそんなふうに考えるわけだね。

 僕らのほんとうの実体がこうして他者によって移植された幅意識によって巧妙に隠されているものだから、科学や宗教は精神の在り処をめぐって、それは脳だとか、やれ、それは霊魂だとか言って不毛な議論を延々と続けてきた。本当の奥行きを感じ取ることができてくれば、どちらもピントはずれなことを言っているというのがハッキリと分かってくるじゃないかね。「脳か、魂か ?」といった議論も以前話したアーリマンとルシファーとのヤラセの一環ではないかと思うよ。実はどちらもほんとうのことなんて言っちゃいない。

 奥行きとしての空間こそが精神の実体。いきなりそう言われても、ほとんどの人は最初はピンと来ないかもしれない。人間型ゲシュタルトの縛りはとても強烈なので(何しろそれを通じて僕らは「人間=わたし」という生き物になっているから)、他者視線に飲み込まれて幅化してしまった奥行きに精神そのものの息づきを感じ取ることは、そんなに容易なことじゃない。でも、幅化した奥行きと本来の奥行きという二重性が明確に区別できてくると、否が応でも本来の奥行きの中に今までには感じたことのない独特の空間感情というものが湧き上がってくるのが分かってくる。それが、僕がツイッターなんかでもいつもつぶやいている「純粋持続」というやつなんだ。これは永遠感覚と言い換えてもいい。仏教的には久遠の生命と表現してもいいかな。キリスト教的に言うならインマヌエルの神ということになるかもしれない。「神、我らと共にいます」ってやつ。内在神のことだね。生命の純粋な力。ニーチェだったら「力への意志」と呼ぶかもしれない。実はその力が奥行きの空間そのものとしてある。それがヌーソロジーの考え方なんだ。

 さて、この純粋持続という感覚をどう伝えればいいものか————そこが問題。たとえば、誰だって心の中に「自分の中でずぅーと続いている存在感覚」というものを感じているよね。これをとりあえずは持続感覚と呼んでみる。自分を自分たらしめている本源のようなものだと思えばいい。この持続感覚は幼少の頃から大人になるまで、自分の人生の一切合切を経験してきたその経験の主のようなものと言い換えもいい。要は自己自身の最も奥底にある命の本質部分。僕らは人間として体験していくことを絶えず経験へと変えながら、それらを記憶の中に蓄えて人生を送っていくわけだけど、その経験の記憶をずっと維持し続けている力とは何かと探っていくと、必ずこの「ずぅーと続いている存在感覚」としての永遠感覚に行き着く。それは「記憶の器」と表現していいかもしれない。この器自体には時間の流れなんてものは存在していない。時間を超えて常にある、と言うか「いる」。時間の流れを観察しているものそのものだから当たり前の話だね。時間の流れを見つめているこの無時間感覚体が純粋持続と呼ばれる力のことであり、これが精神としての実体と言っていい。もちろん、この「純粋持続」という概念自体はヌーソロジーのオリジナルというわけじゃない。ベルクソンという哲学者が20世紀になって打ち出してきた考え方なんだけどね。OCOT情報は単に精神の「力」と呼んでいるけどね。  ベルクソンが哲学の中にこうした純粋持続という概念を持ち込んできたのは、物質と精神の二元的な対立を何とか乗り越えたかったからなんだよね。物質という存在が持続を絶対条件として人間の意識に認識されているのかなら、精神抜きの物質なんてものは考えられなくなる。ベルクソンはそうした持続込みの物質を「イマージュ」と呼んで、物質と精神の区分を無効にしようとした。そして、これが画期的だった。なぜなら、これは物質と精神の媒介を務めるものが実は時間であるということを暗に示しているから。もちろん、ここでいう時間といのは直線的な時間(ベルクソンは幾何学的時間という)のことではなく、本来的時間としての持続のことだよ。こんな発想は、当時は誰も持っていなかった。そして、この考え方が見事に集約された彼の名言がレクチャーでもたまに紹介する「物質とは記憶である」ってやつだね。この話、初めて聞く人も多いだろうから、少し丁寧に説明しておくね。

「物質とは記憶である」とはどういう意味か

さっき言ったよね。人間は見られることによって3次元世界を概念として構成している。そして、その広がりの場所を時間と空間と呼んでいる。そして、物質もその時間と空間の中にある、と思っている。そして、その見方に「物質が対象化されてしまっていること」の原因がある(ヌーソロジーはこうした対象意識から卒業しようと訴えかけているので)。じゃあ、ここで一つ皆に聞こう。「物質がほんとうに空間と時間の中にあるように感じるかい?」。自分の目の前にある物質を見つめながらゆっくり考えてみるといいよ………。えっ、何を言っているか分からないって? 了解。じゃあ、具体的に話してみるね。

 たとえば、今、自分の部屋にパソコンがあるとするよね。「あっ、目の前にパソコンある」と君がパソコンを知覚するとき、当然、そのバソコンは一秒前もその同じ場所にあったわけだよね。二秒前も。そして、もちろん10秒前も。だから、正確に言えば、「目の前にパソコンがある」というより、パソコンは「あり続けている」と言ったほうがいい。でも、この「あり続けている」という感覚は時間と空間の世界の中にあるわけじゃないよね。まずは、ここに気づくことが大事。なぜなら、時間と空間は意識においては現在という瞬間の中にしか存在していなくて、その瞬間としての現在自体は刻一刻と常に新しい現在に入れ替わっているから。言い換えれば、生きている君にとっては時間と空間の世界自体はストロボのような「一瞬」の明滅にすぎないってこと。そういう世界の中でパソコンが「あり続ける」なんてとても無理な話だよね。今、今、今、というように次々と契機してくる現在自体はその一つ一つが凍りついたような瞬間でしかない。つまり、「目の前にパソコンがある」という対象認識の感覚のウラには君が意識しなくとも実は記憶が常に働いていて、その瞬間、瞬間に立ち現れてくるパソコンの像を連続像として支え、保持しているということなんだ。精神が持ったそういった無意志的記憶とでもいうのかな、その働きのことをベルクソンは純粋持続と呼んだのだと思えばいい。こうした瞬間の反復を維持する持続の力がなければ、物質なんてものは「ある」という状態として現れようがないよね。だから、「物質とは記憶である」とベルクソンは言い切った。で、こうした記憶のたなびきとともにある物質像を普通の表象と区別してイマージュと呼んだわけだ。そして、ベルクソンは宇宙全体というのはイマージュの総体なのだと考えた。美しいよね。もはやここには精神と物質の対立は見られないでしょ。両者が見事に溶け合っている。ベルクソンはこの方向に物質と精神の統合の方向性を垣間見た、というわけ。

 で、問題はこの純粋持続の力が一体どこにあるのか、ということについてなんだけど、このことについてはベルクソンは具体的には語ることはできなかった。それで、ラッセルら新実在論の哲学者たちから新手の神秘主義だとこっぴどく批判されて、次第に20世紀の哲学の主流から外されていった。ヌーソロジーの考え方からすると、せっかく高次元世界への扉が開きかけたのにまたガチャンと閉まっちゃったって感じ。実に残念な出来事。そこで、ヌーソロジーはベルクソンが語ったこの純粋持続の力を宗教チックな観念(実際、ベルクソンは「霊魂」という言い方もする)から解放して、もっと実在的なものへと変換させて、そこに具体的な構造を見てとり、神秘主義的な色彩を取り払ってしまおうと考えているわけだね。で、その実在的なものというのが「奥行き」のことだと考えてもらえばいい。いつもツイッターでつぶやいているよね。持続は「奥行さんだぞ。」って(笑)。このことはベルクソンのあとを現象学的に引き継いだメルロポンティや、ニーチェ的に引き継いだドゥルーズも言ってることでもあるんだけど、まだ哲学者の間ではコンセンサスが取れていないどころか、自覚されてさえいない。だけど、この方向で人間の意識の在り方というものを整理していくと観念的なことを空間の在り方に重ね合わせて思考できるようになってくる。たとえばこんな感じ。

  • 幅の空間   

外在世界=延長   

意識   

創造されたものを受け入れる受動的世界

  • 奥行きの空間 

内在世界=精神

無意識

創造することを送り出す能動的世界  何をこの対比で意図しているかというと、物質と精神の対立を幅と奥行きという空間認識の在り方の違いへとすげ替えようとしていると思ってもらえばいい。別の言い方をすれば、物質と精神の差異はそもそもは幅と奥行きの差異に端を発した空間の様態から生まれているものにすぎず、それらがどのような仕組みによって組織化されてきたのかを理解すれば、物質と精神は空間を通して完全に等化される、つまり、統合することができるということなんだ。要は世界を幅で覆った空間で世界を見るとそこに物質が現れ、一方、奥行きで覆った空間で世界を見ると、そこには創造者としての精神が現れる、いう極めてシンプルな関係性があるということだ。しかし、今の僕らには「世界を奥行きで覆う」ということの意味が全くわからなっている。ならば、その概念を辛抱強くというか、執念深く、一つ一つ練り上げていこうじゃないか、と言ってるのがヌーソロジーだと思っていい。だから、ここには哲学者たちが嫌う霊魂などといった超越的要素は一つも入っていない。とにかく、実際にあるものを使って思考する。

持続空間は素粒子空間とつながっている

 さぁ、じゃあ、実際に対象としては見ることのできない奥行きなんてものを一体、何を頼りに思考していけばいいのだろうか。ヌーソロジーにとってそれが「素粒子」だということになる。いや、正確に言うと、これは順序が逆だね。素粒子が人間の意識構造を深く関係を持っているということについては、すでに1997年当時から予想は付けていた。『人神が神を見る日』にはOCOTとの間の次のようなやりとりが書いてある。ここは、とても大事な部分なので、節をまたいでの長い引用となるけど、紹介しておくね。

 オコツトが言っていることは、量子解釈の中で頻繁に議論されている内容を彷彿とさせた。ミクロの空間領域では、観測対象と観測者といった従来のような主客関係はたちまち不明瞭なものとなる。それは対象となる量子の状態はあくまでも波動関数という確率関数で表され、観測者が何らかの観測を行ったときのみ、この確率は現実の事象へと転化されるからである。つまり、観測行為が行われない限り、量子は波動関数という数学的な抽象概念でしかなく、そこに何ら客観的事物が存在しているわけではないのだ。このような理由から、量子的事象の記述においては観測者(オブザーバー)は参与者(パーティシペーター)という概念に置き換えられる。つまり、観測者抜きで量子を語ることはできない。量子的対象と意識は何らかのかたちで相互作用を行っているのだが、その真相はいまだに謎に包まれている。

マクロ=ミクロ、ミクロ=マクロ

素粒子世界は表相に映し出されたタカヒマラ全体の影のようなものです。――シリウスブック:19900321

「量子世界の構造が日常的な空間と何らかの関係を持っていると言われるのですか?」

「はい、もちろんです。シリウスから見ると量子の世界とあなたがたの意識を構成している空間とは完全に重畳しています。」

「意識の空間と量子と同じもの………?」

「主体と客体の関係性に形作られている幾何学が展開されていく空間は、おそらくあなたがたが複素空間と呼んでいるものと数学的には同型対応していくことになるでしょう。量子的な空間とあなたがたの意識を構成している空間は、わたしたちにとっては全く同一のものとして見えています。あなたがたが量子世界の中に見ている構造は、意識を構成するための高次元空間の射影のようなものと考えて下さい。」

「つまり、わたしたちの意識構造が、量子世界の構造と同一のものであるとおっしゃるのですか。」

「そのとおりです。だからこそ、このゲシュタルトはあなた方の意識に変化を起こさせる力を持っているのです。素粒子内部の世界とあなたがたの意識のシステムとはいわば鏡像関係にあります。物質としての素粒子の構造はプレアデス的統制の中で詳しく論じられているわけですから、それが認識のシステムとして形成されている空間構造と一致するかどうかは容易に確かめることができるはずです。そして、もしそれが完全に合致したとすれば、そのときあなたがたはそれこそ自分自身が宇宙の全存在物そのものであることを身を持って感覚化することでしょう。」

主体と客体が作る関係の、そのまた関係性の構造………それを空間的に構造化し、その構造が物質を構成する素粒子の空間構造と一致する…………もし、そのような理論が体系化されたとしたらすごいことだ。それはまさに古代の伝統的哲学が常々語ってきた、下位は上位の反射として存在させられているという内容の完全な証明となる。

『2013:人類が神を見る日』p.174

 どうだろう。ここに挙げた文章は僕が今から約20年前に書いたもの。言っていることが現在のヌーソロジーと何一つ変わっていないことが分かるよね。

 この中で一番大事な部分を挙げるとすれば、「主体と客体の関係性に形作られている幾何学が展開されていく空間は、おそらくあなたがたが複素空間と呼んでいるものと数学的には同型対応していくことになるでしょう。」というところかなぁ。複素空間というのは最近のヌースレクチャーでも頻繁に紹介しているけど、普通のユークリッド空間ではなくて、縦軸が虚軸、横軸が実軸で示される空間のこと(下図4参照のこと)。

縦軸と横軸で2次元の平面を作るんだけど、この平面が複素1次元空間と呼ばれる。現在の物理学が明らかにしたことによれば、素粒子が活動している空間というのはもはや時間と空間の世界ではなく、この複素空間になっていて、たとえば、重力を除く自然界の三つの力(電磁力、弱い力、強い力)の統合が生まれている世界はこの複素平面を5枚要する次元になっていて、複素5次元空間などと言われているんだよね。でも、誰も複素空間が何なのかが分からない。でも、素粒子がたとえ複素数でしか記述できなくても、計算通りに素粒子の挙動が予測できて操作可能となるなら、それで問題はないと考えて、複素空間自体の謎を解明しようとはしていない。

 でもね、当然のことながら、ここで深刻な問題が起こる。それが「認識の危機」というやつなんだけど。科学的世界観というのは、宇宙が時間と空間のもとに物質でできていると考えてきたわけだよね。で、物質の大元に何があるのかという探究心を持ってその探索を素粒子レベルのミクロ世界にまで進めてきた。ところが、物質の大元にはどうも何か訳の分からない複素空間というものが支配している。つまり、量子自体は時間と空間の世界ではないんだね。ここでこう聞く人も出てくるだろね。「おいおい待ってくれ。じゃあ、物質は一体何からできているというんだ? 電子とかクォークとか名前だけは付けているものの、それらが物質じゃないとすれば、正体不明の亡霊のようなものからこの宇宙はできている、ってことになるじゃないか。」物理学者は「仰せの通り!!」と答えるしかない。皆んなも、聞いたことあるよね。量子論における観測問題ってやつ。————量子は通常の物体のように客観的な存在ではなく、観測者が観測するまでは確率の波として時空全体に広がっている。観測者が観測を行ったとき、初めて位置を持った観測対象として出現する————つまり、素粒子というのは、人間が観測していない状態では存在するとも存在しないとも言えないような存在だってことなんだ。今じゃ、現代物理学にはM理論やF理論というのまで出てきていて、この正体不明の複素次元をさらに拡大した巨大な未知の次元が宇宙生成の背後にあると考えられている。で、この未知の高次元は物質じゃない。だから、本当は物質概念で宇宙を見るのは間違っているんだね。でも、現在の人間の思考では物質概念以外に実在概念がないでしょ。だから、宇宙をまともに認識できていないとも言える。だから「認識の危機」だと言っているわけ。これはじっくりと考えてみるとほんとうに恐ろしいことだよ。  さぁ、ここでさっき言った「奥行きと幅」の話に戻ってみよう。奥行きには実は持続が働いていると言った。そして、それは僕らの内在世界=精神そのものだと言ったよね。一方、自己が他者視線に同調して世界を見ると、奥行きは幅化してしまい、外在化した延長世界が現れ、本当の奥行きはその幅化した奥行きによって隠されてしまうと言った。どうだろう……。勘のいい人は少しはからくりが見えてきたんじゃないかな。つまりね、ヌーソロジーはこの本当の奥行きとそこに見える幅の関係を複素平面として見るべきじゃないかと考えているわけ(下図5参照のこと)。

つまり、主体(見つめているもの)=虚軸、客体(見つめられているもの)=実軸ってこと。このへんの数学的な仕組みをもっと説明したいところだけど、これはガイダンスだから詳しい説明は省くけど、意識物理学研究所から出ている『物質の究極と人間の意識』(佐藤博紀氏との共著)では、一つの結論として次のように書いた。

さぁ、ここで言っていることはかなり過激ですよ。今までわたしたちは、まず外界に時間と空間の世界があって、対象から反射されてくる光によって人間の眼という器官がその対象像を受け取るとことを「知覚」と呼んでいたわけです。ここには延長空間と、その中で配置された対象や目、さらには脳というものが前提とされています。しかし、奥行きを虚数軸と見て、複素空間で知覚がなされているとすると、この目の前の空間をもはや延長空間とは見なすことはできません。知覚が降り立っている場というのは、この場合、時間と空間の世界ではない、と考える必要があるということです。全く別の異種な空間がここに重なって存在している。でも、その重なりは一方が複素空間なので、時間と空間の世界から見ると、あたかもミクロの中に存在しているかのように見えてしまう、ということです。だから、目の前の空間には時間と空間というマクロ宇宙の世界と、複素空間でできたミクロ世界が両方重なって存在していると思って下さい。サブプランクスケールの世界というのはミクロ世界に存在するのではなく、異次元としてこの3次元世界に重なって存在している。そういう考え方です。奥行きに幅を持ってきて幅で3次元を構成するか、奥行きそのもので3次元を構成するかで空間が二重化しているのです。

『物質の究極と人間の意識』P.35

物質と精神を同じものの二つの側面として見る思考法

 さて、ここ数回にわたって、物質と精神をいかにして繋ぐかというアイデアについてヌーソロジーの観点からごくごく大雑把に話してきたわけだけど、このメルマガを読んでくれている人たちにもそのネライ目が少しは見えてきたんじゃないかな。念のために、ポイントをもう一度、言っておくね。

1.他者の視線(奥行き)に自分の視線(奥行き)を同一化させて他者側の幅認識で空間を覆ってしまうと、世界は物質でできているように見えてしまい、主体と客体は分離してしまう(もちろん自己と他者もね)。

2.一方、自分自身の真正の奥行きそのもので空間を覆いつくした場所では、主客は一体化していて、世界は精神の世界へと変態を起こす。そして、そこでは精神は物質を作りだしている大元の素粒子空間として活動している(この方向のみにおいて自己と他者も出会いの可能性がある)。

3.よって、現在、幅支配の世界観において物質一般と呼ばれているものは、われわれにはまだ未知のかたちで組織化されていっている奥行き空間(持続空間)の射影構造ではないかと考えられる————

というような推論になる。どうだろう。とてもシンプルなものの見方だよね。この見方にヌーソロジーのどんな思惑が働いているかもう分かるんじゃないかな。要は、3次元という固定的で平板的な空間認識に変えて、物質の内部と外部を縦横無尽に行き来できるメビウスの帯的な空間認識を作ろうとしているってことなんだよね。人間型ゲシュタルトは物体の外部と内部をツルンツルンの境界面で遮断して分離させちゃっているよね。それ対して、変換人型ゲシュタルトはその境界を4次元的に捻って、物質の内部と外部を対称的に見れるような視座を持っているということなんだね。スピ系の世界では今、4次元意識とか5次元意識などといった言葉が流行っているみたいだけど、4次元以上の高次元空間を認識できるようになるためにはこうした内も外も区別しない空間認識の力が必要になるということ。もちろん、過去の神秘家や哲学者だってこれに似たことを言った人たちはたくさんいる。僕が好きなシュタイナーやドゥルーズなんかもそう。でも、彼らでさえ万人に共通了解が取れる高次の空間論を展開することはできなかった。でも、それは仕方ない。まだ素粒子物理学やそれに準じた複素空間の概念なんかは一般化してはいなかったからね。こうした学識が一般の人にも広く知られるような今という時代だからこそ、OCOTも、「ほら、これからだぞ。人間の最終構成が始まるのは」(笑)なんてことを伝えてきたんだろうと思う。シュタイナー風にいうなら、アーリマン的なものとルシファー的なものを統合できるキリスト意識というものが人間の意識に芽吹いてくる条件がついに整ってきたという感じかな。

 ちょっと偉そうな言い方になっちゃっているけど、僕にとっては、OCOTが示唆してきた量子論を通じた空間認識の変革というのはそれくらい斬新なものだと考えている。もし今まで話してきたことが本当なら、どこかの宗教団体じゃないけど、ほんとに人間革命が起こっちまう(笑)。ただ、ヌーソロジーの場合はデカルト的な懐疑精神もちゃんと傍に携えている。冥王星の知性体か何か知らんが、そんな訳の分からない存在のいうことをそうやすやすと鵜呑みにはせんぞ(笑)。無条件にそんなことを信じてしまったら、それこそ、ルシファー的な熱病に冒され、空疎な幻想世界をさまようハメになっちまう。奥行きの空間が複素空間だという仮定はいい。それはそれで十分にあり得ることだ。問題はそこから。その根拠づけのために既成の学問と照らし合わせながら論理的整合性を取り、その知が実際に多くの人たちと相互了解が可能なものになり得るかどうか。そこがクリアできないと、人間型ゲシュタルトを変更していく有効な力にはなり得ない。だよね。  OCOTが言うように、主体と客体の関係性に形作られている幾何学が展開されていく空間が本当に素粒子システムを構成する複素空間と同型対応しているのか、また、その構造が、現代思想が追求してきた人間の無意識構造と深い関連性を持つものに果たしてほんとうになり得ているのかどうか。僕自身、そういった問題意識を常に持って、その真偽をずっと探り続けてきた。あと、もちろん伝統的なオカルティズムとも調整をはかりつつ、ね。こんな面倒なことを片方では会社を経営しながらやってるんだから、そりゃあ、数十年なんて歳月はあっという間だよ。おかげで僕の人生はプライベート即ヌーソロジーというありさま。嫁さんが泣いとるで(笑)。で、すったもんだのあげく、ちょうど2013年頃だったかな、この思考の方向性はやっぱり正しい、という自分なりの確信を持つに至った。サイエンスとスピリチュアリティーを統合する思考方法はもうこれしかないだろうって。それで、作業を次の段階へと進めていく決心をしたわけ。今言った、多くの人との相互了解、共通了解をとるというやつなんだけど。で、10年間ぐらいの引きこもり期間を経て、外部に向けてのヌーソロジーの活動を再開することにした。そういう経緯なんだよね。

観察子という概念について

 さて、このメルマガ「アクアフラット」の配信プログラムにも実はテキスト容量の限りというのがあって、ヌーソロジーに関するガイダンスの連載もあと数回分しか残っていない。ありゃりゃ、ホンマかいな。わし自身、スタッフのOくんに一昨日聞いて知った。そうとは知らず、自由気ままに書いていたのがまずかった。前半、あまりにヌーソロジーには直接関係しないことを喋りすぎたので、ヌーソロジーの基礎的な内容についての紹介がまだよくできていない気がする。ちょっと、バタバタしてしまうかもしれないけど、ここからは、ヌーソロジーの全体構造をざっと俯瞰する話をしておこうと思う。

 ヌーソロジーの全体構造か………。長年やってきたものだから、かなり壮大なものになっているんだけど、まず何と言っても、ヌーソロジーが語る宇宙構造について理解を進めていくためには「観察子」という概念を押さえておかないといけない。これは観察するものと観察されるものが一体化した認識状況を表現するための概念なんだけど、この観察子について、1999年に出した『シリウス革命』では次のように説明している。

「僕ら人間の世界では、宇宙の構造を解明するために「粒子」という概念を用いている。粒子とは、宇宙が物質でできているという考え方にもとづいて作り出された概念であり、実際、物理学や化学といった学問では、物質を分子や原子、そして素粒子に分解し、宇宙で起こる様々な現象の本質について探っている。これらとは対照的に、オコツトたちは、宇宙とは空間、つまり、さきほどの言い方を用いれば、意識で作られていると考えている。そして、その意識の仕組みを分析するために使用されているのが、この観察子という概念だと考えてほしい。そして、物質粒子に、原子や分子といった種類があるように、観察子にも、空間観察子や次元観察子や大系観察子などといった分類を設けているわけだ。」

『2013:シリウス革命』p.107~p.108

 空間観察子とか、次元観察子とか、大系観察子とか、ちょっと硬い響きだけど、この言葉はOCOTが使うシリウス言語じゃない。僕がオリジナルで作った言葉なんだよね。『シリ革』の内容はいかんせん昔書いた内容なので、ちょっと垢抜けない説明になってるけど、今の理解で一言で言うなら、「観察子とは外から見ると物質に見えるけど、内から見ると精神となっているような実体の区分を表す概念」ということになる。変換人型ゲシュタルトの知覚上に出現してくる対象と言ってもいい。変換人にとってはさっきも言ったように物体の外部と内部の関係が見えてくるので、必然的に物質と精神は同じものの二つの側面として見えてくる。それを表す概念が観察子という概念だと考えるといいと思う。

 例えば、酸素分子という物質があるとするよね。この酸素分子は観察子でいうと「顕在化における次元観察子ψ8とψ*8」といったような言い方になる。ψ8というのはヌーソロジーの文脈では「転換位置」という概念を意味していて、これは自己と他者の双方が同じ3次元空間に投げ込まれて認識させられている状態の力として解釈される。ψ*8とは他者側のψ8のことね。逆に言うなら、このような人間の意識状態を外側から見ると酸素分子と呼ばれるものになっている、ということ。これが観察子による世界の見方ということになる。すぐにはイメージが伝わらないかもしれないけど、何だかスゴイ世界だということだけは分かるんじゃなかろうか。ヌーソロジーではこの観察子概念で世界を思考していくことによって、意識が世界そのものと一体化していく感覚を養っていく。もちろん、この観察子の探索はまだまだ初歩的な部分しか分かっていなくて、今のところ、以前、紹介したケイブコンパス上での大まかな地図しか描けていない。その地図も大系観察子の奥の方あたりになると、まだまだ未知の領域。こうやって、僕が皆んなにメルマガを頑張って書いているのも、この未知の大地の地図を一緒に作り上げていく精神たちの立ち上がりを望んでいるからなんだよね。一人じゃ無理。

 幅の宇宙が広大なように、この観察子で構成されている奥行きの宇宙も底なしに深い。ヌーソロジーが打ち出すこのプラットフォームを使って多くの人が観察子空間を旅していくととても面白い世界になっていくんじゃないかと考えているんだ。そして、そこに自然に他者と相互了解できる共有のヌース空間が開いてきたら。これはもう地上のどんな権力にも領土化することのできない、高次元の大地が誕生していくことになるよね。  とりあえずここでは観察子の一覧(空間観察子は省略)と、ヌーソロジーが「意識次元」と呼んでいる人間、変換人、ヒト、真実の人間の関係性を表にして挙げておくね(下表1)。これだけじゃ何のことかサッパリ分からないかもしれないけど、とりあえず、現在のヌーソロジーは、ここに挙げた変換人という領域の意識次元を開くことを目的として活動している。

双子のケイブユニバース

 さぁ、まだまだ言っておかなくちゃいけない大事なことがある。このメルマガをここまで読んてくれた人はもう十分に気づいているかもしれないけど、ヌーソロジーというのは物質と精神を統合する宇宙論という触れ込みなんだけど、同時にそれは、自己と他者の関係を見つめていく自他論にもなっているんだよね。なぜ、そういうことになるかというと、精神と物質という関係自体が実は自己と他者の関係として現象化しているからと言っていい。だから、必然的に精神と物質の関係について語るためには自己と他者の存在論的関係を語ることと相等しくなってしまうんだね。ということは、自己他者関係は相互反照的でもあるから、自己にとっての自己と他者と関係と、他者にとっての自己と他者の関係という二組の双子の関係で世界を語っていかなくてはならなくなる。こうした二組の双子が作り出す関係性のことをヌーソロジーでは「キアスム」と呼んでる(下図8参照)。「キアスム」というのはフランス語で「交差配列」という意味なんだけど、この言葉は哲学者のメルロポンティが好んで使った用語でもある。観察子の関係性を見るときにとても重要な概念になってくるので、そのまま拝借してます。

 で、宇宙の全体構造をイメージするにあたって、もう一つ大事なモデルが「ケイブ・ユニバース」というやつ。このモデルを最初に紹介したのは確か『光の箱舟』(2002年)もだったように思う。2013年に開始したヌースレクチヤー(第2回)では、このケイブ・ユニバースのことを詩人リルケの言葉にならって世界内部空間と呼んだりもした。この「ケイブ・ユニバース」の原型のイメージは『人神』にも登場させたグノーシスの宇宙観から借用しているものなんだけど、イメージとしてかなり違う部分もあるので、ここで簡単な解説も含めて紹介しておこうね。  ケイブユニバースというのは直訳すれば洞窟宇宙ということになるけど、ヌーソロジーでは物質と精神の双方を含めた全宇宙は、ユニバース(universe/一つの回転という意味)という表現が示す通り、一つの壮大な円のかたちになっていると考えるんだね(下図6)。この円環宇宙はさっきも言ったように世界内部空間出会って、外部空間としての時空しか知らない僕たちは今は全く見えていない場所になっている。で、その中を二つの相対する方向を持った力が流れている。一つは宇宙を創造する能動的な力の流れで、これをヌース(noos)と呼ぶ。まさにヌーソロジーのヌースだね。で、もう一つの方はヌースによって創造されたものを受け取る受動的な力の流れで、こちらをノス(nos)と呼ぶ。まぁ簡単に能動力と受動力と考えるといい。で、人間が現在、時空と呼んでいる場所がどこにあるのかというと、この2つの流れがぶつかり合ったところにある(下図6参照)。

 この図からも推測がつくように、このケイブ・ユニバースの宇宙観からすると、現在、人間が物質と呼んでいるものは、ノスが目撃しているヌースだってことになる。なぜなら、人間は創造されたものを受け取る被造物だから。言ってみれば、このヌースとノスが衝突する時空の中で世界内部空間はすべて物質として見出されている、ってことになるわけだ。ヌースの流れをイデアの世界と考えれば、まぁ、文字通りプラトンのいう「洞窟の比喩」のような出来事が起こっているわけだね。図からも明らかなように、人間がもし世界内部空間へと向かいたいのであれば、人間は自分の意識の方向性を反転させるしかない。反転するとそこは実は物質と見えていたものの一番根底の世界に出るよ、というのが、この円環の仕組みから分かるんじゃないかと思う。つまり、それが素粒子だってこと。ノスの流れとして最後に出現してきた人間と、最初に出現するヌースは人間の無意識と素粒子という関係が重なっているんだね。要は、物質とイデアの境界神として働くコーラ(容器)のようなものになっている。  さて、でも、ここでさっき言ったことを思い出さないといけない。何かというと自己他者関係というやつ。この図で青の矢印で示しあるのがヌース、赤がノス。二つしか流れがないよね。ある意味、自己側から見たヌースとノスの流れしかない。だから、ケイブ・ユニバースのモデルを正しく見るためには、もう一つ自己から見た他者側のケイブ・ユニバースも加えて、双子のケイブ・ユニバースという形にしなくちゃならない。で、それがこれ(下図9参照)。

 どうだろう。8の字ループを描いて双方向で絡み合うヌースとノス、ヌース*とノス*の流れがうまく表現されているのが分かるよね。右斜め上のループの方は素粒子から人間の身体に至るまでの、まぁ、言ってみれば宇宙におけるミクロ世界を創造してきたヌースのループになっていて、左斜め下のループは地球から太陽系、銀河系というように宇宙のマクロ世界を創造していったヌース*のループになっている。もちろん、それぞれの反対の流れとしてのノス、ノス*もヌース、ヌース*それぞれの逆方向の流れとして描いてある。で、自己と他者の意識の流動関係はそれ自体が相互反照性をもっているわけだから、この双子のループの関係は自己側から見るのと、他者側から見るのとでは全く逆転して見えている。つまり、ここでもキアスムを構成しているわけだ。

 この捩れの構造が示唆している一番需要な点が図から伝わるかなぁ? それは、この8の字ループの交点が意味すること。ここが創造と被造の原点であるということ。つまり、存在宇宙の中心は人間と地球にあるってことなんだよね。ヌーソロジーという思想体系は徹底した人間中心宇宙論。地球中心宇宙論であるってこと。現代の科学的宇宙観とは徹底して相容れないものになっている。そして、この双子の地球、双子の人間の関係が生み出されている地点のことをOCOT情報は「無限なるもの」の意味を込めて「オリオン」と呼んでいるんだ。「ひぇ〜っ」て感じだよね。で、『人神』にも書いたと思うけど、OCOT情報は現在の地球はもうまもなくオリオン星になる、とも言っていた。これは、こうした存在宇宙の仕組みをまもなく人間自身が知るようになるってことだと僕は解釈してる。決して、人間の意識がオリオンに到達するってわけじゃない。それには長い長い歳月を要するのではないかと思う。  ヌーソロジーにもし大義名分めいたものがあるとするなら、この地球をオリオン星に変えることってことになるかな。今の地球の状況を考えると、そんな日は永遠にやってこないように思えるけど、まぁ、この話は人間の内在宇宙の話なわけだから、自分だけでも地道にこのケイブ・ユニバースの中で生きてみようかと博多での人生を送ってる(笑)。でも、見ればすぐ分かるように、自分ひとりじゃこのケイブユニバースは成立しないから、向こう側にあると考えられるもう一つのケイブ・ユニバースに向かって、「お〜い、誰か、こっちの宇宙に来いよぉ〜」と呼びかけの声を発しているわけだね。みんなも、このヌースの呼びかけの声が心の奥の方から聞こえてきたら、ヌーソロジーの思考に是非、参加してほしい。いつの日になるかは分からないけど、お互い満面の笑みを浮かべてオリオン星で会おう。「おっ、待たせたぜ、相棒」ってね。

ガイダンスを終えるにあたって

 さてさて、みんな、どうだったかね。全48回にわたって連載してきたヌーソロジーガイダンス。これだけ話せば、少しはヌーソロジーというものがどういうものか少しは臭ってきたんじゃなかろうか。このガイダンスは前回も言ったように、ほとんど、その日その日の気分でダラダラと書き綴っていったものだから、全体としてはあまりまとまってはいない。っつーか、ガイダンスらしくなったのは終わりの方だけだったりして(笑)。僕としては、ヌーソロジーの理論内容ということにこだわらず、ヌーソロジーが持っている肌触りや体臭も含めて、いろいろな角度から、ビギナー向けに紹介したつもり。とりあえずは、ヌース用語をほとんど出さず書いたので、割と読みやすかったのではないかと思うんだけど。

 で、このガイダンスを読んで本格的にヌーソロジーに興味を持ってくれた人がいたら、是非、ヌーソロジーの本論の方へ入ってきてくれればなぁ、と思います。ただ、この本論へのステップアップにも問題があって、ヌーソロジーの本論についてはまだオフィシャルなテキストがないんだよね。このメルマガの最初に紹介した僕の著書は、いかんせん、もう古くて、現在進行中のヌーソロジーとは幾分内容が食い違っているところがあるし、構造が不明確なところも多々あって、正直テキストとして使うには向いていない。もちろん、ヌーソロジーの出自や全体の雰囲気を知るためにはオススメの本ではあるんたけど、ガッツリ、ヌーソロジーに取り組んでみたいという人には役不足は否めない。とりあえず、ヌースアカデメイアから現行のヌーソロジーを説明しているオフィシャルな資料として一番薦められるのは、ヌースレクチャーのDVDシリーズかな。特に2013年以降のシリーズがよくまとまっています。

 このへんの不足分を補うために、来年からはヌーソロジー原論に関する学習ツールの充実というか、まずはオフィシャルなテキストブックを是非、作ってみようと考えてる。分かりやすく、面白く、デザインもチョーnoosyでカッコいいやつね。それと並行させて、CGで3Dのアニメーションを使った解説ビデオも作りたいところ。なんせ、ヌースコンストラクションとかヘキサチューブルとか、ヌーソロジーが使用する概念モデルは立体的なので、紙媒体で理解を迫るのは見てる方にかなりの負荷がかかるからね。とにかく、クールにエッジが効いた感覚で一つのアートのような感覚で進めていきたいね。

 あと、日本のスピシーンをもっと面白くするために、単に思想的な展開だけではなくヌーソロジーを応用した技術というものにも挑戦してみようかと思っている。言ってみれば、ヌースのテクノロジー。今、僕の会社の方で試みているNC技術のパーソナルユースのようなものになるかなぁ。現在、いろいろと試行錯誤中なんだけど、年末にはしっかりとしたコンセプトが固まって概要をオープンにできると思うよ。機器の製作にはどうしてもお金がかかってしまうので、財力がほとんどないヌースアカデメイアでは大したものは作れないと思うけど、ヌーソロジーはスピリチュアリティーとサイエンスを等化した思考を持っているから、そこから面白い技術を作ることが可能だと考えている。まぁ、最初は、現在、スピ市場で出回っている波動機器のような類いになると思うけど、理論から製作するという手法を取るので、既存のものとは一味も二味も違うデパイスになってくるかも。お楽しみに。

 そういうわけで、開催中のヌースアトリウムは続けていくけど、ライブのヌースレクチャーの再開の方は当分、先になる見込み。Facebookやツイッターの方は自分の思考の整理帳として今後も活用していくので、ヌーソロジーの旬な動きを知りたい人は、ヌースアカデメイアのプログや、僕個人のSNSをチェックしてね。さぁ、霊性の反撃を始めよう。

以上。

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