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第6回CETによる意識のトランスフォルム―ヌーソロジーにおける三つの思考デパイス

TEXT BY KOHSEN HANDA
第6回CETによる意識のトランスフォルム―ヌーソロジーにおける三つの思考デパイス

外在世界を内在化させるときが来ている

 さて、今回からはヌーソロジーの中に一歩立ち入って話をしていくね。

 今まで、何度が触れてきたけど、ヌーソロジーが行っている作業というのは科学的宇宙観でも宗教的宇宙観でもない全く違った世界ビジョンをこの世の中に提出する試みだと考えていいと思うよ。と言って、今までの科学や宗教を否定しようというものじゃ決してない。言ってみれば、科学と宗教の境界を破壊すること、つまり、物質的な世界観と霊的な世界観の間にメビウスの輪のような捻れを入れて、両者の区別をなくしてしまうような思考法を提示する試みだと考えるといい。

 科学は物質でしか宇宙を語らないというか、語れないでしょ。だから、人が生きる意味についていかなる回答も道標も用意してはくれない。たとえ用意してくれたとしても、一昔前の進化論に見られた弱肉強食説のように強いものが勝ち残り、弱いものは敗れ去るといったような馬鹿げた考え方だけだよね。国際政治やビジネスの世界では未だにこうしたパワーゲームの原理が強く根付いていて、強くなければやられるといった脅迫概念で相も変わらず動いている。一方、宗教はというと(まぁ、一口に宗教と言ってもピンキリなんだけど)、人間のレゾンデートル(自身が信じる生きる理由/raison d’etre)に対して、あの世や霊の存在を力説しながら饒舌に答えてくれはするものの、物質については仏教ならば「世界はマーヤだ」「一切は空だ」と言うだけで、色(しき)としての物質世界に仏性がどう関わっているのかについてはほとんど説いてはいない。キリスト教にしても同じ。未だに原理主義者たちは、創造の七日間を信じていて、神の創造の御業がどのようなものであったか考えることすら放棄している。

 流行のスピはどうだろう。似たようなものだよね。悟り、エンライトメント、アウェアネス、アセンション、ノンデュアリティーなんて言葉が次々に流行りはするものの、結局、それらも心理カウンセリングの域を出ることなく、物質のナゾなんてものについては全く関心を示そうとしない。もちろん、それはそれで悪いこととは思わないのだけど、かつての神智学系の思想のように本丸に切り込んでいく骨のあるスピがほとんどないのは寂しい限りだ。ここでいう本丸とは「物質を霊化すること」を意味するんだけど、この物質の霊化ってのは人間の覚醒の絶対条件と言っていいものだと思うよ。だから、自我からの解放などと言って、自分の心や感情ばかりに意識が向いていても魂は決して自由にはなれない、ってことなんだ。ここは特に宗教やスピリチュアル系の人たちにいいたいことでもあるんだけど、もっと自然と自分の内在性との関係に関心を向けることが大切なんじゃなかろうか。

 

 まぁ、ヌーソロジーはすべてを肯定するという姿勢を持っているので、取り立てて宗教やスピリチュアル的態度を否定したいわけじゃない。むしろ、そういう人たちの方が科学主義に凝り固まった人たちより本来あるべき意識の方向性を求めていることは事実だろうから。ただ、この手の人たちは、みんな精神的にナイーブな人が多いから物質的価値観に支配された社会からの逃避の手段として霊的な隠れ蓑を作っているところもある。でも、それってやっぱり言葉は悪いけど、アヘンとかモルヒネ漬けってことだよね。結果、生きる心はポロポロ、なんてこともあり得る。

 何が言いたいかというと、僕ら現代人においてはもはや万人共通の「信」の置き所がどこにも失くなってしまっている、ということなんだよね。あるとしたら、それは”お金”ぐらい。だから、今の世の中、貨幣が一番力を持ってしまうわけだね。まぁ、ポストモダンの時代状況と言ってしまえばそれまでなんだけどね。でも、これは人間がたどる必然的運命と考えた方がいいのかもしれない。神話でいうなら「オイディプス」ってやつ。自分の父を殺し、自分の母を犯し、挙げ句の果てに盲目となって荒野を彷徨い歩くハメになる悲劇の王オイディプス。「父」を神、「母」を自然に対応させれば、オイディプスは今の現代人の苦悩する姿にピッタリと当てはまる。

 ちょっと話の方向がズレてきてるけど、このへん大事なところだと思うので、このまま続けるね。

 こうした現代人の心の荒廃に対して悲憤慷慨して、すぐに「公」や「国家」のような大義を持ち出してくる人たちがいるでしょ。一昔前でいうなら「ゴーマンかましてよかですか」とか言ってマジでゴーマンをかましてくる人たち。ヌーソロジーは政治には全く関心がないけど、今の世の中、結構、ヤバクなってきている気がするので、あえて、戯言を言っておくとすると、ファシズムを作り出すのは大衆の絶望なんだと思うよ。たとえ権力者たちが絶望を仕掛けている側だとしても、大衆がそれに乗っからなければファシズムなんてものは生まれっこない。集団になると人は悪霊に取り憑かれるから気をつけようね。そこには必ず不気味な熱狂が生まれ、個の否定性で世界が覆い尽くされることになる。「なぜ民衆は、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、 みずから進んで従属するために戦うのか?」 というスピノザの有名な言葉があるけど、個としての自分を見失ってしまうと、人間という生き物は多くがこうした従属の方向へと走ってしまう。だから、政治的なものに関わるときは、保守であれ、革新であれ、右であれ、左であれ、くれぐれも気をつけよう。ちょっとでも気持ちの悪いエネルギーを自分の中に感じたら、オレは誰だ?と自問自答するといい。そして、オレは自民党でも民進党でもない、ましてや日本でもない。オレはオレだ。オレは奥行きなの!!だってね。そしたら正気に戻るよ(笑)

 さっきもいったように、家庭であれ、学校であれ、地域であれ、今、いろいろなところで起こっているコミュニケーションの断絶の状況は精神的個が目覚めるための外圧のようなものだと思うよ。僕自身はOCOT情報が寄越してきた「最終構成」という言葉から、いまの時代状況をそういうふうに見ている。だから、悲観することなんて何一つもないし、絶望することもない。道徳の再興を!!と言って騒ぎ立てる必要もない。時代の流れ全体が人間に大きな価値転換を迫っているんだと考えよう。で、どういう価値転換かというとね、ここが、ヌーソロジーが流行の最先端を行っているところでもあるんだけど(笑)、「宇宙の終焉」ってやつなの。一昔前に流行ったフランスシス・フクヤマなんかの「世界の終焉」じゃないよ。「宇宙の終焉」。終焉と言っても宇宙が爆発してぶっ壊れるとかそんなんじゃない。まうまもなく外の宇宙の時代が終わるってこと。世界が今から内宇宙になっていくってこと。外に見えている世界が実はすべてが自分自身の内なる存在であったということに目覚めてくるってこと。そういう意味での宇宙の終焉なんだ。

 こういう話をすると、生真面目なスピ系の女性なんかは「そう、すべてはわたしなんですよね。悪いことが起きようと、不幸になろうと、それは誰のせいでもなく、すべてわたしの中で起こっていること。だから、すべてを許し、すべて受け入れて………。」なんて痛々しいことを言ってきてついつい辛くなっちゃうんだけど、そんなことを言ってるわけじゃないよ。それじゃまだ、内在に入っていない。中途半端な煩悩の状態。さっき言ったモルヒネ漬け状態といってもいい(ぜひ、そういう人はシモーヌ・ヴェイユを読んでください)。

 ヌーソロジーが「すべては内在!!」と言ったとき、意識のベクトルは反転しているんだ。反転しているってことは、もう、そこにはかつての受動的世界は存在していないと考えなきゃいけない。裏を返せば、すべて能動的なものとして見えてこなくちゃならない。与えられた者の世界じゃなくて、与える者側の世界に入っているんだよね。次元が全く違う。だから、内在に生きる者は世界の風景自体も内在的なものとして見る視力を育てていかないといけない。そこでは空間や時間の質だって変わってくるし、自然に対する考え方も今までとは全く別なものに変化してくる。大地はもちろんのこと、月や太陽もそう。そもそも、自分の目の前にいる他者とは一体何者なのか————そういう感覚になっていく。そして、それらを一つ一つ霊的存在として認識していく必要があるんだ。それによって、はじめて自然はエピファニー(聖顕)してくる。ランボーとか、マラルメとか、過去の偉大な詩人たちが直感で感じ取ってきた風景が現実のものとして立ち現れてくるわけだ。そして、そこで今までには経験したことのない全く新しい空間感情と時間感情が芽生えてくる。内在として生きるということにはそういった能動的意識の強度が要求されてくるってこと。ここが今までの宗教やスピとヌーソロジーが絶対的に違うところだね。

反転した世界に意識が向いているわけだよ。

 でも、こんなこと言っていると、おそらく世の常識人たちはキ印扱いするだろうし、日頃、目に見えない世界のことを真摯に考えている宗教人にさえ敬遠されてしまう恐れもある。事実、僕はスピ系の人たちからもトンデモ呼ばわりされたこともあったしね。いや、過去形じゃないな。現在進行形か(笑)。

 結局のところ、多かれ少なかれ、ほとんどの人は科学的世界観が作り上げた良識にある程度感化されていて、宗教的な人でさえ中止半端な信仰しか持てていないのではないかってことなの。ヌーソロジーにもし信仰というものがあるとすれば、それは神仏の存在を信じるなどといった消極的な信仰でなく、人間自身が神であり、人間自身がこの宇宙を創造する能力を持っていることを信じるという信仰と言ってもいいのかもしれない。能動的信仰とでも言っておこうか。もちろん、人間自身が神だとか言ってしまうと、何だか空恐ろしい信仰のように聞こえてしまうけれど、ここで言っているのは、人間が被造物としての空間を創造者の空間へと変えることは可能だと信じる、といったような意味だよ。僕がOCOT情報をもとに30年間、思考し続けてきた限りでは、それはほんとうに可能だと感じている。もちろん、その認識はまだ朧げなものでしかないんだけど、何事も始まりなんてものはそんなものだよ。不明瞭で曖昧なのは当たり前。それが、時間とともに深化し、多くの人の間で共有されていくプロセスの中で、疑いがないようなものとして凝結してくる。そして、やがて新しい確固とした実在感覚となって後の世代の常識へと変わっていく。そう思っている。大事なことは、そこに向かおうとする意思と思考を決して手放さないこと。あきらめないこと。ネバネバネバネバ、ギブアップ。僕は蠍座の生まれなので、ねちっこく、執拗に、それを30年ほどやり続けてきたってことなんだけどね。なんで、こんな人生になってしまったのか、うぅ(泣)。(笑)。

 

 前置きが長くなったけど、ここらで外の世界をすべて内在に変えていくための思考のコツについて話してみようと思う。

・空間を広がりの中の見るのではなく、深さの中に見ること

 世界を内在へと変えていくためには、当然、今までの外在という空間概念を意識から外さないといけない。現代人は空間というと、すぐに広大な広がりをイメージしてしまうよね。自分を包み込んでいる宇宙という名の途方もないスケールの空間。その中のちっぽけな地球という惑星の片隅で、これまたちっぽけな生き物として生きている自分。時間にしたって同じだよね。科学はこの宇宙が生まれて約137億年が経過してきたっていう。そんな長大な時間の中では自分の人生なんて豆電球の一回の点滅のようなものにすぎない。広大な空間、広大な時間、広大な宇宙。その中の塵のような存在として現れては消えていくわたし————。まぁ、現近人が持った常識的な宇宙と人間の関係はこんなもんだと思うんだけど、こうした空間と時間の感覚の勢力に鎮まっていってもらうこと。それを目指していかないといけない。

 ここでは難しい哲学論議はしない。ただ、一つだけ確認して欲しいんだ。時間ってほんとうにあるかい?実際に目の前に出てくるのは瞬間としての現在だけだよね。その現在もあっという間に壊れ去って過去の中へと消えていってしまう。僕らが経験している時間ってのは、そうなっているよね。でも、そんな時間において、人は自分が「いる」という感覚を感じている。なぜだろうか? ここなんだよね、皆に敏感になってほしいのは。要はこの「いる」という感覚は瞬間瞬間で流れ去っていく時間とは無関係なものじゃないのかってこと。もっとシンプルに言っちゃえば、外の世界というのは実は瞬間でしかないのではないかってこと。その瞬間をつなぎ合わせて、世界がある、と言っているのは、内在としての「いる」自分だということ。そして、この「いる」場所には流れていない別の時間の世界があるだろうってこと。

 実は、その流れていない別の時間こそが「わたし」という存在なのだ、と考えてみたらどうだろう。哲学ではこういう「いる・いつづけている」感覚のことを純粋持続(ベルクソン)っていうんだけど、これは言葉を変えれば永遠感覚と言っていいものだよね。幼稚園のときの自分と今、成長した自分がいるわけだけど、それついて考えている自分自身は何も変化していない。それは流れている時間を感じている流れない時間のことだからね。で、「生きている」ということは、ほんとうはこの永遠感覚に触れていることなんだと考えたらざうだろう。ここ、すごく大事なところだよ。僕らは普通、時間と空間の中で生きていると思っているけど、そうじゃなくて、その外にある永遠の中で生きているのではないかということ。改めて自分の心を振り返ってみるとなんとなく感じてくると思うよ。流れる時間なんてものはこの持続を取り払ってしまうと、実はどこにも「ない」って(笑)。分かるよね、ここんとこ。ここはじっくりと考えてみてほしい。

 過ぎ去る一瞬一瞬としての現在を君が過去として感じているってことは、君自身の中にそれら古い諸現在を保持している力、つまりこの純粋持続の力があるからなんだよね。その場所からいうなら、過去は消えて無くなったわけじゃない。むしろ過去の方が現在もあり続けているんだ。とりあえず、分かりやすく「記憶の世界」と言っておこう。でね、この在り続けている過去全体というものの深みに向かって意識を向けてみようってことなんだ。漠とした直観でいいんだよ。何も過去の出来事すべてが見える必要もない。そこで直観的に感じ取ることのできる持続空間を自分のほんとうの住処、否、これからの人類が住む空間として開拓することはできないか、そこでいろいろな概念や思考を作ることはできないか、もし、そこに具体的な風景を作り上げ、外の世界の事物と接合させることができれば、世界の様子は内と外が繋がったものとして、今までとは全く違ったものに見えてくるのではないか————ヌーソロジーはそういうことを文字通り永遠の中で考え続けているわけ。

 その意味では、ヌースの思考作業は時間を空間化したところに生まれてくるアーキテック(建築的)な作業と言ってもいいね。単なる広がりとしての空間と流れ去る時間の世界から、流れない時間が存在している宇宙の深みとしての空間へと僕らの居住場所を移動させ、そこに新しい都市を作らないかって勧誘しているってことだから。もちろん、「うぜぇ〜」と言って断るのもOKなんだけど(笑)。

 表現は違えども、こういうことは、実は宗教者やオカルティストたちはずっと言ってきたし、哲学者たちだっていろいろと語ってきた。でも、人間の文明が進み出して「過去はすでに終わったこと、大事なのは現在やこれからの未来」と多くの人たちが考えるようになったんだね。そして、この過去の場所について思考しようとする人はいなくなった。そういう空間があるこさえ忘れてしまった。もちろん、今でもオカルティストたちはその場所に何とか触れようと瞑想に励んだりもする。でも、そこに具体的な構造までは見てとることはできていないようだね。せいぜい、時折出現してくる霊視能力や霊聴能力を持った人たちが主観的に表現するしか術がなかった。この持続空間はとりあえずは主観的なものだから、当然、すべての人が共有できるわけじゃない。結果、それは「信じるか信じないかはあなた次第です」の世界になってしまった。僕がOCOT情報から学んだのは、この空間をあらゆる人の感覚の中に復元させていく方法論だったと言っていいかもしれない。ただ。瞑想とか身体技法を使うってスタイルじゃない。それはそれでもちろんアリだとは思うけど、ヌーソロジーは新しい霊的センスを売り物にしてるから、全く違った方法を取る。それは、この持続空間の中に潜む空間の幾何学構造を思考によって削り出すっていう方法論なんだ。だからヌーソロジーもその構造解説をメインに展開していくことになる。

 「おいおい、半田さんや、そんな構造、一体どうやって見つけようと言うんだい?」って、普通の人なら疑問に思うよね。一体何を根拠にしてそんな構造を削り出せるというのか。あまりにトンデモすぎねぇ〜か、って。そこで、ヌーソロジーは現代物理学が明らかにし始めている素粒子構造を使っちまおうぜ、と言う。ほーら、あんなに頭脳明晰な現代物理学者たちもちゃんと発見しているでしょ、時間や空間を超えた場所ってのはほんとうにあるんだよ。非科学的じゃないだろ。これがトンデモかどうかは誰も立証できないぜ、って。このへんの事情は1冊目の『人神』に書いてあったよね。ヌーソロジーのこうした現代物理学を最重要視する姿勢は今も何も変わっちゃいない。ちょっと引用しておこうか。

マクロ=ミクロ、ミクロ=マクロ

 素粒子世界は表相に映し出されたタカヒマラ全体の影のようなものです。――シリウスブック:19900321

 「量子世界の構造が日常的な空間と何らかの関係を持っていると言われるのですか?」

 「はい、もちろんです。シリウスから見ると量子の世界とあなたがたの意識を構成している空間とは完全に重畳しています。」

 「意識の空間と量子とが同じもの………?」

 「主体と客体の関係性に形作られている幾何学が展開されていく空間は、おそらくあなたがたが複素

空間と呼んでいるものと数学的には同型対応していくことになるでしょう。量子的な空間とあなたがたの意識を構成している空間は、わたしたちにとっては全く同一のものとして見えています。あなたがたが量子世界の中に見ている構造は、意識を構成するための高次元空間の射影のようなものと考えて下さい。」

 「つまり、わたしたちの認識のシステムが持つ構造が、量子世界の構造と同一のものであるとおっしゃるのですか。」

 「そのとおりです。だからこそ、このゲシュタルトはあなた方の意識に変化を起こさせる力を持っているのです。素粒子内部の世界とあなたがたの意識のシステムとはいわば鏡像関係にあります。物質としての素粒子の構造はプレアデス的統制の中で詳しく論じられているわけですから、それが認識のシステムとして形成されている空間構造と一致するかどうかは容易に確かめることができるはずです。そして、もしそれが完全に合致したとすれば・・、そのときあなたがたはそれこそ自分自身が宇宙の全存在物そのものであることを身を持って感覚化することでしょう。」

  

 主体と客体が作る関係の、そのまた関係性の構造………それを空間的に構造化し、その構造が物質を構成する素粒子の空間構造と一致する…………もし、そのような理論が体系化されたとしたらそれはすごいことだ。それはまさに古代の伝統的哲学が常々語ってきた、下位は上位の反射として存在させられているという内容の完全な証明となる。

 「つまり変換人型ゲシュタルトにとってのカタチとは意識の幾何学のようなものと考えてよいですね。」

 「意識の幾何学ですか………なかなかいい表現ですね。高次元空間における形態認識とはそのようなものと考えられて結構です。反転した空間認識が生まれてくれば、それは自然と見えてくるはずです。」

                            ————『人類が神を見る日』p.178より

 でも、ここで気をつけて欲しいのはね。ヌーソロジーが語る空間構造をただ対象のように眺めていても何の意味もないってこと。ここで削り出されていく空間は決して「対象」なんかじゃないんだ。ヌーソロジーの思考を行うときは、まずは純粋持続の感覚を直観し、その中に全身をダイブさせ、自分自身がその幾何学体へと変身しないと何の意味もない。最初に言ったよね。イデアとは思考するものと思考されるものとが一体となったところに初めて出現してくる。だから、ヌーソロジーが語るカタチの世界とは純粋持続を生きる自分自身の霊そのものとして感じとっていくことが何よりも必要なんだよね。持続が持ったカタチなわけだから、当たり前の話なんだけど。

ヌーソロジーが用いる三つの思考装置

 さあ、前置きが、チョー長くなってしまった。

 というところで、この高次世界で活動している持続の構造体をイマージュしていくにあたってヌーソロジーが使用する三つの思考モデルをざっと紹介しておこうね。ここからはちょっと気分を変えてSFっぽくいこうかな(笑)。

 ヌーソロジーではこれらの思考モデルを総称して「セット/CET(Conceptual-Equipment-Techné)————コンセプチュアル・エクイップメント・テクネー」と呼んでいる(笑)。訳して「概念-装置-技術」ってやつなんだけど。まぁ、言い換えればイデアを考えていくための思考方法のことだね。

 CET(セット)という略称は、エジプト神話に登場する蛇神SET(セト)を意識したものだけど、ヌースの機械に蛇神の名称をつけるなんて、と多少、抵抗を感じる人がいるかもしれないね。でも、そうじゃないよ。イデア機械を作動させていくためには蛇神の力が必要なんだ。というのも、秘教の世界では蛇の力とはいつも宇宙の生命力として象徴化されているでしょ。要は、ここには物質的思考の力を創造空間側へと相転移させろ、といった意味合いが込められていると思ってほしいんだ。もちろん、同時に「人間の意識進化には科学的知識が不可欠」というOCOT情報の教訓も込められている。日本神話に詳しい人は知っているよね。古事記に書いてあるでしょ。スサノオがヤマタノオロチを退治したら、その中からヤツカノツルギが出てきたっていう有名な話。

 ここには物質を見ないと精神なんてものは決して分からないという意味が込められていると思うよ。物質的知識がここまで発達してきたから、ようやく、人間は精神についても正しく語れる力を持てるようになった。そう考えないといけない。でないと、古い霊性に呑まれてしまって、精神は退行してしまう。たぶん、科学嫌いの人は「機械」という表現にも抵抗を感じるだろうね。これも、今までの霊的世界のイメージを払拭するためのヌース的アジテーションの一つだと思ってもらえばいい。ヌーソロジーが見ているイデアの基礎となる世界は実は極めて整然としたものなんだよね。それはあたかも機械のようでもある。ここでは、一応、そう言っておく。もちろん、この機械群が霊的世界のすべてなんてバカなことはいわないよ。

 ここは大事なところだからよく聞いて欲しいんだけど、ヌーソロジーがこれらの機械で切り開いていきたいのは、新しい思考のための大地のようなものなんだよね。その意味でいえば、現代人にとっての思考の大地とは、時間と空間の世界だよね。カントという哲学者が時間と空間は人間の直観形式といったんだけど、それは時間と空間が人間という存在を根底で規定しているという意味なんだよね。それと同じような意味で、ここに紹介するCETが構築していくのは、新しい人間を規定するための直観形式と言っていいのかもしれない。ただ、その形式は時間と空間と呼べるほど単純なものではないというだけ。そこにはきっちりとした構造があるんだ。その構造をみんなで共有することによって、今度はその場所に新しい意識の生産物を作っていこうよ、って話なの。このへんからも、ヌーソロジーが宗教や何ちゃら主義といった狭隘なイデオロギーのようなものじゃないって感覚、伝わるよね。伝わらないかなぁ(笑)。まぁ、いいや、そのへんはまたの機会に譲るとして、CETの内容の説明に移ろう。

・CETにおける三つの思考装置

1.  ケイブコンパス

2.  NC(ヌースコンストラクション)

3.  ヘキサチューブル

 おぉ、ハイパーでいいよね。いきなりカタカナ言葉のオンパレードだけど、ここはSFチックに楽しんでもらえばいい。ヌーソロジーはお堅い哲学なんかでは決してないので。

 CETの基本コンセプトは、いずれも人間型ゲシュタルトの解体を視野に入れて作られたものなんだよね。人間型ゲシュタルトとはさっきの「時間」と「空間」の直観形式と深く繋がっているんだけど、要は「容器図式(空間という地と物体という図)」によって支えられている三次元的な物質認識、ならびにそれを背後で支える言語認識のことを指していると思っていい。そして、ここから派生している様々な人間の意識内容も人間型ゲシュタルトの範疇に入ると一応考える(具体的にどんなものが人間型ゲシュタルトであるかは徐々にわかってくる)。

 ヌーソロジーでは、CETを用いることによって反転した意識の中に「変換人型ゲシュタルト」というものを育てていくんだね。そして、このゲシュタルトで思考していくことにより高次の空間知覚を獲得し、そこでの全く異種の世界イメージを発生させることを目的としている。高次の空間知覚というのはひとことで言えば、さっきも言ったように、持続空間の中にイマージュされてくる素粒子のカタチのことだね。ただ、このカタチは僕らがカタチと呼んでいるものとは全く違うので注意が必要。普通、カタチというと見えるものの形のことをいうわけだけど、ヌーソロジーが考えるカタチとは「見るもの」のが持ったものなんだ。持続空間におけるカタチだからそういうことになる。当然、このカタチは通常のオブジェクトレベルからは何の影響も被ることはない。いわば永遠の相(メタレベル)における永遠的形象ってやつになる。これが伝統的にイデアと呼ばれているものだと考えていいよ。

 ヌーソロジーが提唱する持続空間のフレームの中では、この形象の構成秩序が物質の基盤となる光子や電子をはじめとする素粒子構造と深い関わりを持ってくることが示されていくんだよね。1980年代のニューサイエンスブーム以降、物質と精神の接合点を量子空間に求める議論は折をみてはなされてきたのだけど、ヌーソロジーほど明快で、かつシンプルなロジックでそれら両者の連接を説明した考え方はたぶんまだ存在していないんじゃないかなぁ。ヌーソロジーの量子解釈がもし量子的事象の核心をついたものだとすれば、人類はここにきて初めて素粒子自体の認識に成功したと言えることになるのではないかと思っている(偉そうな言い方でごめんなさい)。そして、このことは、決して理性では捉えることができないとされていた、「もの自体」の空間領域への侵入をも意味しているんだ。

 それでは、ここで、CETに組み入れられている各々の概念装置の概要を説明をしておくね。

1.ヌースコンストラクション(略称「N.C.(エヌシー)」

「N.C.(エヌシー)」とはNOOS CONSTRUCTION(ヌースコンストラクション)の略称。これはOCOT情報が唯一、ヴィジュアルで送ってきたカタチをもとにして作った思考装置だね。昔は、これを「ヌル・ポッド(nul pod)」とか呼んでもいたっけなぁ。ヌル・ポッドというのは光の容器といったような意味なんだけどね。光ってのは光速度で走るでしょ。そこでは時間は止まっちゃう。だから、ヌルポッドというのは時計的時間から解放されたところにある光の容器といったような意味だね。この三つの球体のつながりが何を意味しているかというと、人間の空間認識が、主体の位置を無限遠点と看破したときの宇宙のカタチと言っていいかな。このときに、主体の空間と客体の空間の間にメビウスの帯的な反転の捩じれが見えてくるようになるんだ。その状態をシンプルな反転関係にある球形のトポロジーとして表現した形態だと考えるといい。この形態の認識への発現によって、人間の思考がより高い次元領域(様々な素粒子群)にアクセスすることが可能となる。その意味で、「NC」は、高次元の内部空間を飛行するための次元航行艇とも呼べるものだね。いずれ分かってくると思うけど、この「NC」だけでも、かなりの情報量を含んでいるよ。こんなシンプルなのにね。

2.ケイブコンパス

「ケイブコンパス」は「NC」と並んでヌーソロジーの思考においては最も重要な概念装置だね。2013年から始めたヌースレクチャーシリーズではDVDのタイトルバックにも使っているね。最初に紹介した「NC」をトランスフォーマー(変換人)のベッセル(乗り物)とするなら、この「ケイブコンパス」は高次元空間として広がる無意識の広大な海において変換人たちが方向性を見失わないように航海していくための羅針盤となるもの。そんな感じかな。

 ケイブコンパスを通して見えてくる世界はほんとうに壮観だよ。まさに、トランスフォルム空間という感じ。この羅針盤に沿ってNCの思考を進めていくと、今まで物理学が素粒子世界と呼んでいたものの本質がよく理解できてくるし、またフロイト=ラカンなんかが説いた人間の無意識構造やシュタイナーがいう物質体・エーテル体・アストラル体・自我といった自我構造、さらには、太陽の核融合の機構までもがすべて同一のものとして見えてくる。この地図がある程度読めるようになってきた人は、世界観が完全に反転した人、と言っていいんじゃないかな。きっと、強烈なイマジネーションを持って世界の反転を進めていくと思うな(笑)。詳細はいずれまた。

3.ヘキサチューブル

ヌルポッドに乗ってコンコンパスを片手に高次の無意識空間の思考飛行を続けていくと、やがて、無意識空間に美しい幾何学的秩序が見えるようになってくる。ジャングルを抜けたら、突然、白亜のピラミッドが現れてきたみたいな(笑)。僕が最初にこのカタチが見えたときは腰が抜けた。えっ〜、マジかよぉ〜!!って。これはプラトン立体のイデアの形成秩序からなる精神の結晶体のようなものなんだけど、基本的なカタチはスピなんかでも取りざたされているマカバ(相関する二つの正四面体)なんだよね。ケプラーの星形八面体というやつなんだけど。そして、このカタチの中に内接・外接を通じて、正六面体と正八面体が延々と続いていくようなフラクタル構造が内蔵されているわけ。で、このカタチを、一つの正六面体の頂点方向(ユークリッド的には4次元の方向)から覗き込むと、そこには、やはり延々と無限に続くヘキサグラム(六角形)の回廊が見えてくる。  OCOT情報にこの回廊の意味を聞くと、「意識が通る道」と答えてきた。ここでOCOTが言っている意識というのは能動的意識のことだから、つまり、この回廊は物質を創造していく能動的思考が次元上昇していく道になっているんだね。僕はペンローズなんかが言っている「マイクロチューブル」を意識して、このカタチに「ヘキサチューブル」って名前をつけた。六角形状の細長いチューブのイメージだね。まだまだ、はっきりしたことは言えないけど、おそらく、創造空間というのは途中までは僕らが想像している以上にシンプルなものだと思うよ。

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