NOOSOLOGY ヌーソロジー

時間と別れるための50の方法 Vol.9

TEXT BY KOHSEN HANDA
時間と別れるための50の方法 Vol.9

視野空間は知覚正面と言うように、「面(めん)」として開示しているにもかかわらず、その「面」を外部(他者側)から見ると瞳孔という一つの点状の小さな穴に化けてしまっている――ヌーソロジーにおける存在への侵入は、この面と点の幾何学的関係性の中に、見ているもの(主体)と見られているもの(客体)の関係を置くことから始まります。ハイデガーの哲学をより現代的に引き継いだドゥルーズの言い方を借りるなら、「眼とはカメラではなくスクリーン」として把握されなければならないということです。

 私たちが空間上に何らかの対象を見るとき、そこには対象とその背景空間という差異があります。いわゆる、ゲシュタルト心理学でいう「図(figure)と地(ground)」の関係です。ゲシュタルト心理学が言うように、対象の認識は当然のことながら、この両者の間の差異がなければ起こり得ません。例えば、目の前にライターがあるとして、そのライターはライターとしての輪郭を持っており、その輪郭は背景空間との境界に出現していることが分ります。そして、その輪郭がライターという存在者を文字通りライターという図として縁取ることによって、ライターの知覚が起こっている。。。このとき、この「図」としてのライターと、その「地」としての背景空間の間には絶対的な差異があります。しかし、こうして肉眼では確認できてはいるものの、この差異を私たちははっきりと空間的に概念化することはできていません。というのも、現代人が持った3次元認識では空間はのっぺりとした平板的なものとして捉えられているので、図としてのライターの空間も、その「地」としての背景空間も「3次元立体」や「3次元空間」というように、同じ「3次元」という概念で一括りにされていて、それら両者の間にある反転による空間の捻れが曖昧なままで、認識にハッキリと上がっていないからです。

 この反転による空間の捻れを明確なものとし、そこに幾何学的な構成を与え、この構成から始まる新たな次元概念を作り出そうと考えているのがヌーソロジーです。この次元概念は『人神/アドバンスト・エディション』でも紹介したように、ヌーソロジーが「次元観察子」と呼ぶ概念によって表されていきます。この次元観察子という概念の役割は哲学的に言うなら、「見せかけの空間に抗って、本性上の差異、すなわち実在の分節を見つけだすこと」に相当します。その作業プロセスは文字通りヌース本来の意味である「旋回する知性」によって進められていくのですが、その第一の分節を見出すためにも回転に対する想像力が必要なのです。想像力と言ってもそんな大それたことを言ってるのではありません。『人神/アドバンスト・エディション』にも書いたように、目の前でモノをただ回してみればいいのです。

 当たり前の話ですが、目の前でモノを回すと観測者にはモノだけが回って見えます。モノの背景となっている空間はそのままで動きません。ヌーソロジーでは、この知覚的な事実は、「観察者とモノとを結ぶ視線という1次元の線分」と「モノの内部の1次元の線分」とが全く次元を異にしているからだと考えます。

 このように回りくどい言い方をしているのは、モノとその周りの空間には地」と「図」という差異があるわけですから、モノの内部を構成している線分がモノの外部の空間に出ることは決してできないと考えるからです。言い換えるなら、モノの内部を占めている空間だけではモノを差異として認識できない――見えない、ということです。

 下図「●何がモノを見ているのか」を参照して下さい。

今、目の前でクルクルとボールが回っているとしましょう。回転させると、この球体としてのボールは、静止した状態では見ることのできなかった様々な見え姿を観察者の視界の中に露わにさせてきます。しかし、ここで注意して欲しいのは、その回転の様子を見ている観測者の方は回転することもなく、ただじっと静止したままだということです。これは一体どういうことなのでしょう?

 観測者の視線も空間的には1次元の線分であることに変わりはありません。ボールが観測者に見せている表面はボールの中の空間の一つのの方向であるのが分かります。ボールの内部とボールの外部の空間がもし連続的につながった同一の空間ならば、ボールが回転したとき観測者も一緒に回転するはずですが、現実はそうなっていない。観測者が静止したままでもボールの回転によってボールの全表面を見ることができます。ということは、同じ1次元の線分でも、視線という線分にはモノから放たれている3次元の空間の全体性をその一本の線分の中にすべて束(たばね)る能力があるということを示しています。つまり、私たちが一般に「視点」と呼んでいる空間上の一点(これこそ、僕らが観測者の位置と呼んでいるもののわけですが)は、モノの3次元回転のすべてを一点に取りまとめた位置として、モノの次元からは超出したところに位置しているのです。

 では、モノが回転してその表面上の点を次々に違うものにしていくにもかかわらず、視点を視点そのものの場所にしっかりと固定させているものとは一体何なのでしょう。通常、3次元的な思考では、私たちはボールの表面上の一点も視点も同じ「点」として考え、それらを区別することはしません。例えば、ボールの直径が30cmで、観察者がそのボールの中心から1m離れているとした場合、そこに今度直径1mのボールを持ってくれば、そのボールの表面上の一点と観察者の位置は全く同じ位置と見なされてしまうことでしょう。これは普段、私たちが観察者の位置とモノの位置を同質な空間上で考えているからです。

 モノと同一化したこのような空間で観測者の位置が捉えられてしまうと、意識に対する私たちの考え方は極めて奇妙なスタイルを採っていくことになります。つまり、一方に外界があって、もう一方に身体をベースにした外界知覚のための感覚器官が存在し、この感覚器官が外界の情報を察知しその情報を脳へと送る、といった、あのおなじみの科学的な外界認識のモデルです。ここでは「見るものの空間」と「見られるものの空間」の違いがまったく考慮されていないので、実にのっぺりとした平板的な空間イメージの中で、光、網膜、視神経、視覚中枢と言ったような物質の連携システムとして意識の成り立ちが説明されていくことになります。しかし、このような物質空間の同一性の中では、いくら理論を精緻化させて行こうとも意識についてはうまく説明することができません。なぜなら、世界を見ている観測者自身の空間的差異が最初から無視されてしまっているからです。

 視点が存在している3次元空間は対象の外部に位置するという意味で、対象の内部を占める3次元空間に対して絶対的な差異を持っています。この差異があるからこそ、空間中に物体が認識されているのです。では、その絶対的な差異とは何なのでしょう? 

 それは視点を成立させている条件となっている視野空間の存在としか言いようがありません。というのも、視点という概念が成り立つためには、そこから世界が見えていなければならず、そこから見える世界の見えは、視点と言うよりも視野空間という2次元状の面になっているからです。

 前回の図9で示した交差円錐の図を見ながら、そこで起こっている出来事を何度もイメージしてみて下さい。自己側からでも他者側からでも構いません。そこにおいては点としての瞳孔が先にあったのではなく、面としての視野空間の方が先にあったのです――そして、この視野空間としての面こそが本来の主体であり、一方、視点の方は他者の視野空間という鏡に映し出された鏡像空間の中に、私が後になって勝手に想像したものにすぎません。主体はこの鏡像としての視点に視野面である主体そのものを重ね合わせ、そこに「わたし」という位置を感じ取っているのです。ですから、この視点の位置とは、ヌーソロジーが用いる次元観察子の記号でいうと、ψ3がψ*3を使って自分自身をψ4の中に反射させたもの、ということになります。

――つづく。

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