視野空間を「面(めん)」として見る――このことは決して視野空間を2次元の平面として見るという意味ではないので気をつけて下さい。視野空間と云えども、そこには奥行き方向も含まれているわけですから、ここでOCOTのいう「面」とはあくまでも3次元空間のことになります。このことは、こうした「面」を見ることにおいて、その観察の視線は一つ上位の次元に存在しているはずですから、この「面」への観察が行われている空間が4次元空間であることを示唆しています。
普段、私たちは空間をx軸、y軸、z軸のイメージを通して3次元と考えているので、視野に映っている面をx-y平面とするなら、世界に対して視線が入射してくる方向をz軸の方向と考えがちです。しかし、このような思考は自分の位置をすでに3次元空間上の点として想像することによって生まれているものです。つまり、前々回、前回と詳しくお話ししたように、鏡の中の世界とも言えるモノの手前側に自身の目玉や頭部を想像的に位置づけ、そこに「世界を見ている自分」の位置を思い措き、そこに3次元的方向を見出し、概念化してしまっているのです。ですから、本来の実像としての自分、つまり、「前」=知覚正面自体は、この3次元性の中には存在していません。
ホントウノ、ワタシ、トハ、モノソノモノ、ノコト、デハナカッタ、ノカ?
デハ、モノハ、ナゼ、ワタシヲ、モノノ、ガイブニ、オイヤル、ヒツヨウガ、アッタ、ノカ?
言うまでもなく、モノそのものはモノを見ることはできません。モノがモノを見るためには、モノではないもの、つまり、モノをモノとして対象化できる外部を作り出す必要があります。そして、モノを対象化する外部を作るためには、モノ自体がその外部へと出ていくための能動力と、それによって物の外部として観察される受動力の二つの方向性が必要になります。もちろん、ここでいう受動力の方が鏡像としての「わたし」の位置です。なぜなら、その「わたし」はモノの由来を知らないからてす。人間としての「わたし」は、ただ、モノを受け取るしか能がないでしょ。生まれてからしばらく経って、気がつくと、目の前にモノがあった。
しかし、他方の能動力の方はモノの由来をある程度は知っています。知っているからこそ、モノ自体の世界さえをも乗り越えて彼岸に渡っているわけです。その意味で、この能動力の方は此岸にいる「わたし」には決して触れることのできないものとなっています。その正体は一体何だと思いますか? いや、ここは「それは誰だと思いますか?」いう問いに変えるべきかな。
それは他者です。本来、世界はモノだけで充足していた。しかし、モノには自分の姿をモノとして見ることはできなかった。だから、モノは自分を外部へと出す必要があった。そして、そこでは外部へと出すものの役割と、外部へと出されるものの役割が必要とされた。外部へと出すものの役割を私たちが「他者」と呼ぶ存在が担い、そこに鏡が配置され、その中に外部へと出されるものとしての「自己」が産み落とされた。そして、その「自己」はその鏡像に同一化しているため、本来の「前」を喪失し、他者という鏡に映し出された後ろの世界のなかに閉じ込められる。。それによって光速度としての存在の皮膚はその偽の「前」方向への視線によって覆い隠され、モノ自体の世界は客体としての物質へと姿を変えられてしまった。
こうして、「あなた」という存在、つまり他者は、「わたし」にとって、モノから常に超出した、モノの向こう側にいる者として存在し、一方の「わたし」、つまり自己はモノから常に疎外され、未だモノに成りきれぬ者として、モノの手前に存在させられているわけです。以前、お話したように、これら三者の関係はオリオン(真実の人間)、シリウス(ヒト)、プレアデス(人間)の関係にあります。
モノジタイ、デアルコト、ハ、ラクエン、デ、アッタ。
アダム、ト、イブ、ハ、ナゼ、ラクエン、カラ、オイダサレナケレバ、ナラナカッタ、ノカ?
モノからのこの相異なる二つの方向への相補的分離の様子は「人神/アドバンスト・エディション」の380頁で紹介した交合円錐のモデル(図9/向かい合う他者の視野空間と交合円錐)を使うと比較的簡単にイメージすることができます。
この交合円錐モデルでは、自他の視野空間と瞳孔の関係を互いに交差する二つの円錐の底面と頂点の捻れの関係で表しました。このとき、自他の視野空間をモノから超出した力、自他の瞳孔をモノから疎外された力と考えてみるのです。というのも、瞳孔とはわたしたちが普段、3次元空間内で自分の位置と考えている場所のことであり、その瞳孔に対する認識は、上にも示したように、他者の視野空間に支えられて初めて出現することができるものだからです。
――まだまだ続きますよ。