人間の意識はモノの中に落ち込んでいる
立体としてのモノの3次元性。そして、そのモノの外部に広がっている空間としての3次元性。これら両者の間には観測者がいるかいないかの絶対的差異があるにもかかわらず、人間型ゲシュタルトにはその区別がうまくできていない――この内容についてもう少し具体的に話してみましょう。
OCOT情報によれば、人間の意識はモノの内部に落ち込んでいるとされます。人間から見てモノの内部は決して見えないので、人間は普段、モノの外部からモノを見ていると思っているのですが、もし、自分のいる位置をモノの内部を構成する空間概念の延長上に措定しているとするなら、そこはやはりモノの内部の空間と呼んでいい場所であり、概念的には人間はモノの外部には出れていないということになります。モノの内部からその外部は決して見ることはできないでしょうから、そうした場所からは、現実としてのモノを見ることなどできないはずなのです。このように、実際には見えてはいないはずなのに、あたかも目の前にモノがあるかのように錯覚している状況をOCOT情報は「付帯質の妄映(モウエイ)」と呼んでいます。つまり、人間が見ているモノとはイリュージョンだということです。このことは、裏を返せすなら、現在の人間は、実際にモノが見えている空間を概念として正しく把握していない、ということを意味しています。どういうことか説明してみましょう。
『人神』やこのブログでも何度か語ってきたことですが、科学的理性は空間に大きさを与えないと気が済まない性格を持っています。このリンゴの直径は約10cmだとか、東京-博多間は約1.000kmだとか、銀河系の直径は約10万光年だとか、とにかく、外界と呼ばれる世界の有り様を理性の光のもとにより露わなものとするために尺度や測度といった度量衡を利用するのが大好きです。
しかし、考えればすぐに分ることですが、こうした「大きさ」で規格化された空間は、現実として目に見えている世界ではありません。前にもお話ししたように、視覚空間は射影空間なので、月の大きさと10円玉の大きさが一致しても何の不思議もありませんし、極端な話、針の穴の中に無数の銀河を入れることだって可能です。ですから、尺度によって意識に抽象されてくる、包み込みや包み込まれといった包含関係のイメージというのは、私たちの視覚空間とは実は全く関係ないものであり、それは視覚というよりは触覚に関係が深いものなのです。
今回の『アドバンスト・エディション』で、次元観察子ψ1~ψ2を触覚に対応させたのも、そのへんが一つの理由になっています(以前は触覚がモノの全体性を一気に把握することができるのでψ3の次元ではないかと考えていましたが訂正しています)。実際、モノに触れる感覚というのは、モノの内部の空間を包み込んでいる膜の生成のようにも感じ、触覚においては、手触り、かさ張り、質感といったように、モノの外部の空間はほとんど意味を持っていないことが分ります。触覚空間にはモノの外部がない。このことはかなり新鮮な感覚を意識に与えてきますから、皆さんも、実際に物を触って、その「モノの外部がない」感覚を再確認してみるといいと思います。
さて、ここで次のような状況を想像してみて下さい(下図参照)。
目の前に直径10cmのリンゴがあるとしましょう。今、そのリンゴをイメージの中でどんどん膨らませていってみるとする。すると、直径が5mぐらいに膨らんだ辺りでは、リンゴを見ていた「わたし」はその架空のリンゴの内部にすっポリと入り込んだことになります。触角で概念化されている尺度が見ている私をその中に包み込んだわけです。これは概念としてはモノの中の世界にすぎません。
つまり、何が言いたいのかと言うと、『人神』にも書いたように、本来、長さという概念は、モノの幅や、モノの高さといったモノの端と端の間に生まれているモノの内部概念に依拠して派生してきたものだということです。これは、言い換えるなら、意識は「長さという概念ではモノの外部には出れない」ということを意味しています。モノの外部の空間に長さを適用することは、もし、モノの内部と外部の間に空間的な差異があるとすればカテゴリーエラーとなってしまうということです。しかし、僕らは普段、平気でモノの外部の空間にもこうした長さの概念を適用させ、天体物理学などに至っては宇宙空間全体をもそうした概念によって覆い尽くしてはいまんか。そして「宇宙の外部は一体どうなっているのだろう?謎だ」などと言って、訝しがっている。これは、問いの立て方自体が間違っているのてす。
『アドバンス・エディション』では、こうした尺度的な思考の暴走を「漆黒の闇が光を片っ端から食い尽くしていっている」と形容しました。想像力を逞しくしてイメージしてみて下さい。モノの内部にある正体不明の真っ黒なコールタールのような空間が、人知れずこっそりとモノの外部へと染み出してきては、「わたし」を食らい込み、無数の「他者」を食らい込み、地球を食らい込み、そして、宇宙までをも食らい込んでいる様子を。この食らい込みの結果、世界はすべてが数値化されたデータに置き換えられ、挙げ句の果てに、そのデータを今度はコンビュータという一個のモノの中でシミュレーションさせ、そのシミュレーションされたヴァーチャルな空間を、このリアルな空間と同等のものと見る人まで出てきている。
コウセン : ヴァーチャル・リアリティーとは何ですか。
オコツト: 人間の意識が持った進化の方向性が全く逆方向に反転したものです。モノの中のモノ(付帯質の妄映)が神となった、モノの中のモノの中のモノの世界です。
すごい表現です。まるで、鏡の中の世界が無限に続いているようなイメージです。実際、OCOT情報によると、空間は無限の次元が重畳したレイヤー構造のようにして活動しています。それがヌーソロジーが考える「次元」です。そして、この次元には世界を生成していく方向と、死滅させていく方向という二つの方向性があります。未だ格闘中ですが、その次元構造を人間の知性の前に浮上させることがヌーソロジーの目的であり、その構造体を形成する概念力が私がいつも「変換人型ゲシュタルト」と呼んでいるもののことなのです。
――つづく。